「存在の受容」と「行動の受容」

 「存在を受容すること」と「行動を受容すること」をイコールで結びつけることは良くないことだと、かねがね考えています。



 他者の「存在」は、無条件に受容/承認すべきで、そうした関わりが私たちには相互に求められるでしょう。だからといって、他者の「行動」のすべてを受容/承認していいかどうか、と言えば、そうではないでしょう。



 しかし、「受容する」=「否定/批判しない」という等式が暗黙の了解になっていると思われるやり取りを、若者同士の間でも、若者支援者と若者の間でも、散見します。その場やそこに集う者の関係性に照らして不適切な行動をしているのにも関わらず、それを周囲が受容すれば、修正されないままに大人になってしまいます。いろいろな事情があるにせよ、無責任だと言われることでしょう。「まぁこれくらいは…」というのも、「自分がその相手との関係性をこじらしたくない」という思いからであれば、無責任の範疇でしょう。



 もちろん、「それは、おかしい/アカン」という行動があった際に、一刀両断でバッサリと切り落とすことは極力避けるべきでしょう。指摘されたことの意味が分からなければ、本当の意味で正すことにはならないですし。ですから、「こういう時はこうしないとあかんのちゃうか?わかる?わからへん?」「知ってた?知らんかった?知ってたのに、なんでできてへんの?」…と聴いたり、「僕はそういう行動をされて、こう感じたわ」とフィードバックしたりしながら、行動については正していくことになるでしょう。



 不適切な行動について指摘すると、「わたしのことが嫌いなんや」「わたしのことを認めてくれへんのや」といったような反応を返してくる若者がいます。そのことは、私が相手の存在を受容していることを十分に感じてもらえていない(時に本当に受容しきれていないこともあるでしょう)ことも表しており、私自身の至らなさを突きつけられるものです。



 しかし、それだけではなく、彼ら/彼女らの中で「存在の受容」と「行動の受容」が混同されていることも透けて見えます。なぜそんな混同が起こっているのか。それは彼ら/彼女らの問題「ではなく」、その周囲の関わり方の問題とするのが適切ではないでしょうか。この混同、若者支援者の課題の一つだと私は考えています。



 「人と人が感情をぶつけあう」ことを「対話」と定義している、写真家・橋口譲二さんのワークショップの記録『対話の教室』を読むと、橋口さんと若者とのやりとりは、時に刺々しいですが、しかし、まぎれもなく「本気なやりとり」であり、若者はその「本気」から多くを感じ取っていることも分かります。その橋口さんは同書で次のように語っています。



 いまの社会を見て思うことは、若い人が受け入れられすぎて、無責任に優しい社会になっているように思えてならないことだ。「休みたい」「辞めたい」「展示をしたくない」……という彼らの声を、僕らがそのつど無条件に受け入れていたら、果たしてこのワークショップはどうなっていただろうか? もしそうしていたら、ワークショップが終わったあとみんなの心の中に残る感情や記憶もまた、別なものになっていたと僕は思う。ワークショップを通じて、僕や星野が口にした言葉の正当性はともかくとして、僕らは誠実に問いを発し、答えてきたつもりだった。それに対して彼らもまた、感情を多々害し、苛つきながらも、彼ら自身も自分の態度や言葉で僕らに誠実さを返してくれた。(略)世代こそ違え、人と人として感情をぶつけあったからこそ、穏やかなたたずまいのみんなが僕の目の前にいうのだと思う。橋口譲二星野博美『対話の教室−あなたは今、どこにいますか?』平凡社、2002年、pp.345-346)



 若者支援にかかわる者として、どれだけ責任感を持ってその場に在り、誠実に問いを発し、答えられているか。常に自問していたいものです。