指摘/指導も成長には必要、だろう。

 先日、大学の授業終了後、自分の出席回数を教えて欲しいと受講生に聞かれました。「自分の出席回数が自分で分からないの?」と聴いたら、「わかんない」とのお返事。「もう大学生なんやから、自分のことは自己管理できるようにならないと。本当にわかんないの?」と再質問すると「えぇー、多分2回くらいだけど、そんなん言わんと教えてやー。他の先生は教えてくれるのにぃ〜」とのお返事。結局、いろいろと考えて、その学生さんには出席回数を教えませんでした。



 気になったのは、「なんでここまで自己管理ができない状態で、学生生活に支障を来さずに過ごせているのか?」とか、「なんでここまで礼儀が身に付いていないのか?」ということでした。授業中でも、配布資料の説明をしだすと、時折、遅刻してきた学生さんが手を挙げて「紙!」と言うことがあります。その度に「紙をどうして欲しいの?」「紙がないのはなんで?」と聞き返しますが、どうして「遅れてきてしまいましたので、資料をいただけませんか?」と聞けないんだろうなと不思議に思います。



 もちろん、そういう若者が急増したのではなく、ゆるやかに若者が変容していく中、自分がオッサン化していき、変容が最近気になりだしたということなんだと思いますので、自分もまた上の世代から見れば、イケテナイところがきっと多いことでしょう。



 とはいえ、僕が生まれ育った頃には、既に地域の人から注意されることは減っており、家では「おとなしい」が故に、生活指導もほどほどでしたが、学校で先輩や先生からあれこれ指導されたものです。もちろん、「その指導はないやろー」というものも含めてです。



 しかし、上述の学生さんには、どうもそうした学校での指導の痕跡をみることのできません。全てがそうだとは言いませんが、学校の先生方も学生さんの評判/評価を気にしたり、「傷つきやすさ」に怯えたり、価値観のスーパーフラット化が進行して、しっかり指摘/指導することが減っているのかもしれません。家でも、地域でも、学校でも、先輩・後輩間でも、そうした指摘/指導がなされないまま、育ってきているのかもしれません。



 決して何でも「ああせい/こうせい」と指導すべしとも、闇雲に指導すべしとも思っていませんが、個々のライフステージや発達課題を見て、先生や先輩が気づいたことについては、きちんと指摘/指導していくことがもう少しあってしかるべきかと思っています。



 存在や感情に○×はありませんが、行動には(固定的な線引きではないにせよ)○△×があります。その違いが混同されて、個人の尊重や受容というワードでくくられてしまうと、結果として、その個人の社会化は進まなくなってしまうと思います(僕の要らぬお節介か?)。



 ただ、自らが教育を論ずる上で、基本的に「指導」という言葉は使いたくないなぁと思ってきましたし、今もそう思っていますが、それ以外に適当な言葉が見つからずに使っています。どう語ればいいのか、まだ模索中の思考事項です。