教育を語る言葉の「厚み」

 「教育学って美辞麗句ばかりなんですよね。」


 高校時代にみたNHK教育のある番組の中で、佐藤学さん(東京大学教授)がそのように仰っておられました。学校教育現場の先生方との対話を重視されながら、日本を代表する教育学者になられた佐藤先生の言葉だけに、今でも鮮明に覚えています。最近、この言葉に僕は自分の言葉を付け加えて、次のように紹介しています。


 「教育学って美辞麗句ばかり。その理想はとても大切なものだが、現実はそんなきれいなものではない。それが教育だ。」


 高らかな理想とは違う現実を前にしても、理想を放棄して現実におもねてしまうこともせず、また、現実を直視しないで理想論だけを語ることもせず、葛藤を抱えながら現実を少しずつよくしようと汗を流し続ける。それが、多くの教員の「現場」ではないでしょうか。理想を放棄したり、現実を直視しないのは、誠実な教員とは言えないでしょう。誠実に理想と現実の両方と向き合う、そうした葛藤を抱えた方々の言葉には「厚み」があります。その「厚み」を前にして、私たちは心動かされたり、圧倒されたりします。


 先日、このブログでも広報した、シチズンシップ共育企画骨太教員養成プロジェクト提供の「教員採用試験の願書を書いてみるワークショップ」を実施いたしましたが、その場で学生さんにお話ししたことの一つは、「薄っぺらい言葉」と「厚みのある言葉」の違いというのは、(葛藤体験も含め)自分の体験が豊かかどうか、そうした体験と言葉がつながっているかどうか、この違いなのだ、ということでした。借り物の言葉ではない「自分の言葉」は、自らの体験からの学びに対する気づきの自覚に裏付けられるものです。


 社会的な背景やニーズを捉えることももちろん大事ですが、そうしたニーズにどう応えるのか、正解はありません。自分の体験に立脚し、自分の言葉で紡がれる「私」の教育観が、そこでは問われます。だからこそ、一見迂遠のように思われるでしょうが、(学校内外で)「様々な」体験を豊かにしつつ、体験から始まる探究活動を支える専門文献と格闘し、自分の言葉を鍛えていく必要があるのだと考えています。


 いろんなワークショップで、意欲的で熱心な学生さんと接しながら、そういう学生さんが焦りのあまりに浮き足立ってしまうことなく、じっくりと腰を据えて学んで成長できる場をもっと社会は用意すべきだと痛感しています。そういう場づくりにつながる活動、少しずつでも増やしていきたいものです。