「言葉のお守り的使用法」

 先日、鶴見俊輔が1946年に発表した論文「言葉のお守り的使用法について」(鶴見俊輔鶴見俊輔集3 記号論集筑摩書房、1992年、pp.389-410)を読みました。



 鶴見が言う「言葉のお守り的使用法」とは、「人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場をまもるために、自分の上にかぶせらり、自分のする仕事の上にかぶせたりすること」(p.390)を指します。



 例えば、戦前・戦中、お守り的に使用された言葉としては、「皇道」「国体」「翼賛」「八紘一宇」といったものが上げられますが、(その言葉への思い入れはともかく)こうした言葉をつかって物を申しておけば、正統化され、また害を与えられない、という奇妙な状態を、鶴見は見事に喝破したのでした。



 鶴見は、日本ほど言葉がお守り的に使われる文明国は珍しいと1946年の論文で記していますが、言葉のお守り的使用法は、現在の日本、そしてアメリカでも、今尚よく見受けられると言えるでしょう。



 私がよく使っている「市民(活動)」もそうしたお守り言葉となりかねませんが、私が注目するのは、「安全・安心」「セキュリティ」「危機管理」といった言葉です。そうした言葉が「お守り的使用」がなされ、なし崩しの政治が進展しているのは、(特に9・11以後)明らかです。



 鶴見は、この論文を通じて、「言葉のお守り的悪用からときはなたれた政治」の実現を提起したわけですが、今尚、その解放には至っていません。鶴見は言います、「言葉のお守り的使用法のさかんなことは、その社会における言葉のよみとり能力がひくいことと切りはなすことができない」(p.390)と。



 「お守り言葉」に惑わされずに、真摯な対話がなされる政治が実現することを促す、リテラシーを私たちは是非ともつけたいものです。 

 そういえば、この前、ブログで紹介した丸山真男の論文「「『現実』主義の陥穽」も戦後間もなくに発表されたものでした。



 戦後間もない頃の(戦時中を問題として取り上げた)論考から学ぶことが少なからずある、ということは、一体何を示しているのでしょう…。考えさせられます。