死を内に孕んだ生

 新しい年度となり、昨年度のもろもろの業務報告書の作成もしつつ、新年度から仕掛けていく高校生対象の市民教育事業関連での新規企画の仕込みを学生スタッフの力を借りながら、せっせと進めています。どうしても淡々と整理する報告書書きよりも、創造する楽しさや高揚感を味わえる企画書書きに気持ちは行きがちですが、「報告する」ことも軽んじられてはいけないと、自戒する日々です。



 さて、今年度の企画の中で、昨年度からの継続事業(充実発展)するものとして「生と死の共育ワークショップ」があります。06年12月から関心を寄せつつ、デス・エデュケーションに関する勉強を積み、07年11月に第1回目を開催したものですが、今年度は3〜4回の実施をと考えています。



 このワークショップは、自分自身の死生観を磨いていかないと、いいものにならへんやろなと考えています。そんなわけで、今年度の実施に向けて、最近「いのち」とは何か?という問いと向き合っている論集を移動中に読んでいました。



 僕はブックカバーをしない人なので、「いのちとは何か?」と書いた本を電車の中で真剣に読んでいる姿を乗り合わせた他のお客さんが見て、「この子、自殺せぇへんやろか?」と心配されていたんではないかと思いますが(苦笑)



 日々「死」とともにある医療機関の方の言葉には、僕では到底発することのできない重さがあり、うならされました。そのくだりは長過ぎて、引用できないのですが、ホスピスを営まれる徳永先生の言葉を一つだけ、ここではご紹介。



 「死は内に孕むものである」ということを意識しながら、生きるのも大事で、死を遠ざけすぎないことが、「いのち」を別の次元で生き生きと輝かせるのではないか。それが文化というものではないかと。徳永進さん/野の花診療所



 ここでいう「文化」というものが具体的にどういうものであるのか。それはじっくり考えたいものです。「表現の手段」は発達するも「表現の欲望」は貧困になっていっている、とは鶴見俊輔さんの弁ですが、「死を内に孕んだいのち」を生きることが「表現の欲望」、そして「かかわり合いの欲望」をしっかりと刺激することにつながるのではないかと受け止めました。



 「死」は普通に生きていれば意識することはないものでしょう。そして「死」を意識する場面では、じっくり自分と向きあって、「その時」を受け止められないものでしょう。だからこそ、日常生活の中ではあるものの、ワークショップという非日常の場で、しっかり意識することに意味があるのだと思っています。



 その意識化の先に、どういう「文化」が広がるのでしょうね。今年も実践を通じて、模索していきたいものです。