触媒としての知識/材料としての知識

 先日、市民活動の大先輩の方のお話をお伺いしていて、ふと思ったことがあります。



 オリジナリティがあり、鋭く尖ったメッセージ性のある議論を展開をされる方は、非常に幅広い分野の知を総動員しつつも、それを単なる「材料」とするのではなく「触媒」として自らの意見を膨らませられている、ということです。



 幅広い分野の知と書きましたが、アカデミックな知について、特定の分野/領域にとらわれず、どこかつながりのありそうな知は貪欲に摂取していくことは、この専門分化している現代の学問世界の中では大変なことです。しかし、だからこそ、「利用できるものは何でも利用する」という大胆さで、知の再編集をしていくことが、新機軸を生み出すには重要なのでしょう。これは、知り合いのフェミニストの方に教わったことでもあります。



 ただ、知を幅広く得てしまうと、ついついその豊かな知を材料としたパッチワークをして、一つの意見を組み立ててしまうという隘路があります。知りすぎるからこその失敗です。そうすると、よほどこなれない限りは、どこかで聞いたことのある意見の寄せ集めにしか聞こえません。これは僕自身もやってしまう失敗です。



 様々な知と向き合う中で刺激を受けて(触媒として利用して)、生みださていく自分の考えを明確にしていくこと、既存の知から飛翔した思考を羽ばたかせ、新たな理論や論理を組み立てること、これらがなされることが大変重要です。



 しかも、そこで組み立てた自らの考えを論証していく時に、市民活動の現場を通じて得られる「市民知」を活かすことで、ますますオリジナリティは高まり、鋭さは増します。市民活動家であれば、自分の考えが生み出される背景に、きっと「現場」で何か源泉となるものを得ているはずでしょう。そこをきちんと明瞭にしていくことです。



 我々はついつい市民活動の現場にいるにも関わらず、その忙しさのあまり、市民的調査を通じた市民知の取り出しに手間ひまをかけなかったりします。そして、アカデミックな知に依存しすぎてしまいがちです。しかし、それでは、オリジナリティは高まりません。市民知の取り出しについては、我々は多くを先人から見習わなければならないことです。



 我々はもっと多様な「知」と向き合わなければならない。でも、それは材料を仕入れるためではなく、触媒として使うためにである。そんなメッセージを大先輩の話から僕は受け取りました。



 (真の読書というのは)自分の中に新しいことがおこる、そのきっかけとして本を読むというような、読み方じゃないでしょうか。だからその本の中に何が書いてあるかということを非常に広く知っている人は、別に本の読み手として重んじたい人ではありませんね。鶴見俊輔「図書館と私」、鶴見俊輔鶴見俊輔集10 日常生活の思想』筑摩書房、1992年、p.528、括弧内は引用者による補い)