<おおやけ>の字引き、<わたくし>の字引き

21ajwnj82sl._sl500_aa140_.jpg 字引きには、<おおやけ>の字引きと、<わたくし>の字引きの二種類があると思う。<おおやけ>の字引きとは、みんなが言葉をどう使うかについての道しるべであり、<わたくし>の字引きとは、自分が言葉をどう使うかについての道しるべである。鶴見俊輔「字引きについて」、鶴見俊輔記号論集−鶴見俊輔集3』筑摩書房、1992年(初出1965年)、p.3)



 専門学校の講師を含めれば、高等教育の教壇に立って5年目になります。この1〜2年で特に感じているのが、「思考力」の低下です。世の学力低下批判にある通り、確かに漢字は知らないし、敬語も乱れていますが、それよりも深刻だと私が感じているのが次の3点です(もちろん全員が全員ではないですし、学年や大学でも雰囲気は異なります)。



(1)自分の考えというものを「練り上げる」力の低下(すぐに曖昧語で逃げたり、よく分からないと思考停止させたりする)



(2)自分の考えを表現する語彙の貧困(これは読書量の低下との関係性は高いでしょう)



(3)自分の考えと他者の考えとのすり合せに粘り強く取り組み、新たな答えをつくることへの不慣れ



 こういった問題は鶴見さんの論文で言えば<わたくし>の字引きを編めていないとも言えるでしょう。鶴見さんは、われわれが<わたくし>の字引きを編み、自らの使う言葉を定義していく習慣がないことの理由のひとつに、学校教員が「<おおやけ>の字引きにたよりながら言葉の意味を教えて来たからではないか」(前掲書、p.3)と述べています。



 言葉の意味を暗記的に覚えるのではなく、その「言葉」と自らの生活・経験・思想といったものと突き合わせて、自分なりに咀嚼し、定義し直し、言葉を「自由」に使いこなす作業は確かに教育現場では多く見られるものではありません。ここは私も自戒を込めて考えるべきことです。



 例えば、同論文では「インターナショナルな人」という言葉を斎藤アラスカ久三郎という労働者が「胸はばの広い人」と定義した話が示されています。もし、生真面目な教員であれば、この定義の提案をどう受け止めるでしょうか。意味が少し違うと却下してしまうことも少なくないのではないでしょうか。



 どういう背景を持ってそういう定義を思いついたのか?その言葉に込めた思いは?と本人に問い返し、また、同じ学びの場にいる共同学習者の受け止め方と、他の学習者個々の独自な定義との「交わらせ」を模索していくことはなかなか見られないでしょう。



 偉大な国語教師は、それぞれの生徒が<わたくし>の字引きを編むことをたすけ、生徒相互の<わたくし>の字引きの交通を管理することのできる人だろう。そしてその上に、日本でいま通っている<おおやけ>の字引きとこれらの<わたくし>の字引きとのつながりを工夫する人だと思う。(前掲書、p.6)

 

 総合的な学習の時間などで、「調べ学習」が増えたのか、年々ウェブを駆使して調べるという力はついていますが、それは自分で答えを出すために調べているわけではなく、どこかにある答えを発見するためであり、また、調べるといっても自ら一次資料にあたるわけではなく、ほぼ二次資料を取り出すといったものが大半のようです。



 自分の担当科目の幾つかでは「あなたはどう考えるの?どうしたいの?それはなんで?他の人の意見とのすり合せは?」と問いが重ねられていきます。こうした<わたくし>の字引きをフル活用するような授業こそ、自立的で自由に判断する市民の育成になるはず。



 高校までに<わたくし>の字引きを一定は編んだ上で、新しい<おおやけ>の言葉を生み出していく高等教育の場に進んできて欲しいなと思います。大学院時代に読んでいた『記号論集』を久々に手に取ってみて再読して、そんな願いが沸々とわいてきました。同時に、わたしも与えられている現場でどうするか、ですね。そこも忘れては行けないでしょう。