レポートは自己表現、ではないのか。

 年に二回、大きな労力を割く業務が生じます。それは、大学で受け持っている科目の成績採点。春学期は2科目だけだったのですが、その内の1科目は75名の人数の多いクラスで、レポート採点にここ数日を費やしました。



 約4000字×75人=30万字を一気に読むのは、純粋に労力がかかるものですが、それは速読でいくらかはカバーできます。読んでいて考えさせられる良質なレポートがあれば、寧ろそれは楽しい業務になります。しかし、意欲をぐっと落とされるのが、ウェブからのコピー&ペーストが見受けられることです。



 文章のトーンや分析力が一つのレポートの中でちぐはぐになっていたり、一言一句と違わない同一表現が複数のレポートで用いられていたり、中には、ウェブのハイパーリングの痕跡も明確に残っていたり…という感じのものが、少なくないのですねぇ、いやはや。



 きっと、気づかれないだろうと思っているのでしょうが、ちゃんと読めばすぐに分かります。昨年度はそう気にならなかったのですが、今年度は眼に余ります。これが偶然のことなのか、何らかの原因があるのか、少し考えてみる必要があります。



 秋学期の担当科目では、幾つかでレポートではなく論述試験に切り替えてみようかと検討開始。とはいえ、レポートの方が底力のある学生をきちんと評価できるので、捨て難い選択肢なんですが。



 学生時代、僕はレポートは小さな論文であり、自己表現/言論表現なのだと捉えて、えらく時間を費やして書いていたものです。今読み返せば、駄文も多く、恥ずかしいものばかりですが、その時々のベストは尽くしていたので、一つの足跡と受け止めています。



 レポート執筆で自分に甘くならないようにと1回生の頃から大学院修了まで、全レポートをウェブに公開していました(今もここで観ることができます)。そんなこともあり、レポートによる評価にこだわってきたのですが、どうやらレポートを言論表現のツールと捉えている学生さんは、そう多くないようです。



 鶴見俊輔は、1998年にインターネットについて語り下ろしていますが、上記現況を眼前にして、その問題提起は今なお鋭く胸に突き刺さってきます。



 インターネットは本を自在に作れる条件を作った。だけど作るには、「作ろう」という欲望がいる。(中略)深い欲望はどこから出てくるか。インターネットを使いこなす欲望というものは、いったい何なのか。それは難しい問題を含んでいる。(中略)そういう、もうジョン万次郎になれない人が、たまたまインターネットを手に入れたといても、重大な一冊の本が作れるか。それが「未来の本」についてにの重大の問題なんだ。鶴見俊輔鶴見俊輔、インターネットを語る」、『季刊・本とコンピューター』1998年春号、トランスアート、pp.191-194)



 表現の手段は発展しても、表現の欲望が衰えてしまっては、意味がないことは言うまでもありません。初等中等教育での情報教育では、表現の手段を磨くことよりも、表現の欲望を磨くことに力点が置かれるべきでしょう。その時に、市民メディアの視点が生きてくるはずです。大学での教育も例外ではありません。全くもって考えさせられる事態です。