学校教育と社会教育、そのおもしろさ。

 先日、教員志望の学生と話をしていて、「川中さんは高校の先生に、もうならないんですか?」と聞かれました。その答えは「うーん、いまんとこはね。」というもの。僕は、中学校の時から大学院の時まで一貫して、高校教員を志望してきました。しかし、現時点では、高校教員への強いこだわりは、ほぼなくなっています。



 それは、学校教育と社会教育の力点の置く場所の違いが分かり、そのどちらに今の自分がフィットするのかが分かったからです。



 学校教育の現場では、生徒は自分が担当する教科内容について「学びたい!」と強く思っているわけではありません。また、学んでどうするのか?ということも不明確な状態で学習しています。そして、学年という共通性を除けば、実に多様な関心/経験のレベルの生徒を前にすることになります。そこでは、「興味関心をもってもらうこと」に多くの労力を割いているように見えます(僕の大学での授業もそう)。



 しかし、社会教育の現場では、自分が担当する学習内容について「学びたい!」と思い、学んだことを活かす先を何らかのかたちで持っており、関心や経験のレベルはある程度揃った学習者を前にすることになります。そこでは、「学んだことを実践で活かしてもらいやすくすること」に多くの労力を割きます。ちなみに、経験則ですが、学校教育と社会教育の両方が大学(院)教育にはあるように思います。



 「興味関心をもってもらうこと」と「学びを実践に導いてもらうこと」に価値の優劣はないものでしょう。どちらかが容易かという問いも愚問です。それぞれの難しさがあります。要は、教員なりファシリテーターの個々がどちらの方により喜びを感じるかが、学校教育/社会教育のどちらの世界の住人かの分かれ目のように思います(どちらにも関心があるのは普通で、比較の話です)。



 現時点の僕は、「学びの実践化」に関心が強く、そのことに向いていると思っています。なので、当面は社会教育の現場にいるのかなと思っています。



 ただし、一つ注意が必要です。私は大学生向けにキャリアのお話をする時に「職業」ではなく「仕事」を大切にすべきであるとお話しています。「どの職種につくのか?」が職業の選択で、「その職業について何を成すのか?」が仕事の選択。大事にすべきは「仕事」であることは言うまでもありません。



 いま自らが成し遂げたいこと、成し遂げるべきことができるのであれば、学校教育でも社会教育でも、フィールドはどちらでもいい、それが冒頭の質問へのきちんとしたお応えです。

 ちなみに、2004年のときのエピソードを紹介しましょう。03年末の頃は、シチズンシップ共育企画は週末の活動におさえて、平日は普通の高校教員として過ごそうと考えていました。そこで、シチズンシップ共育企画のウェブサイト(当時はまだ僕の個人サイト)で「僕は教員になりたいので、教員採用試験までファシリの仕事は受けません!」とトップページに書いたことがあります。



 しかし、まぁその書いたことの効果はゼロ。「ウェブをみたんですけど、そこをなんとか…」とご依頼をいただける方が大勢いらしたのです。今考えれば、その時のご依頼者には本当に深く感謝しています。



 で、そうはいうものの、教員採用試験への未練もあり、いくつかを受験してみましたが、いずれも(不勉強もたたり)不合格でした。その時に、じっくりと考え、「社会教育は僕が仕事を受けないと言っても、僕を呼んでくれる方がおられる。そして、学校教育は今の僕は要らないと言っている。であれば、求められる道を歩もう!」と決めたのでした。



 神さまのお導きでした。