「語り」のオープン化

 チームビルディングのためには「語り」が必要だと、よく言われます。私もよく言います。

 メンバーそれぞれが何を目指して、どのような思いをもって、今どのようなことを考えたり、感じたりしながら、活動をしているのか。そうした思いを抱くに至ったのはどうしてなのか。こうしたことを語り合いながら、思いを重ねあわせたり、響きあわせたり、感じ方や考え方をわかち合いながら、相互に理解と共感を育んでいき、チームになっていく。

 私自身も学生時代から、こうした「語り」の時を大切にしてきました。その際、日常とは少し違う「語り」の雰囲気をつくりだし、舌を滑らかにするために、「飲み語り」が多くなることに。込み入った話をしたい時には「サシ飲み」となることもしばしばです。学生時代は特にお金もなく「宅飲み」も増えます。こうしたプライベートな空間での「語り」が日々の活動を下支えし、思いやリーダーシップの継承をもたらしていることは、市民活動や学生活動では珍しくないことでしょう。

 しかし、私自身の反省も含めてですが、こうしたプライベートな空間での「語り」は、閉鎖性を宿しています。先輩が後輩としっかり飲み語ろうとする時、多くの場合、その相手は先輩は自らになついてくる後輩で、且つお気に入りであることが暗黙の条件となります。また、異性よりも同性のメンバーの方が、プライベート空間でのやりとりに抵抗感なく、ジェンダーで偏りを生むことになります。

 このようなことを踏まえると、閉じられた「語り」の場をオープンにする必要性があるように思われます。組織のリーダーシップの継承先は、先代のお気に入りかどうかではなく、次代にどういう人材が必要かどうかで判断されるべきであり、また、その判断はジェンダーにとらわれることなくなされるべきものでしょう。

 「語り」をオープン化する、ということは、オフィシャルな場でしっかりと思いを分かち合う機会をつくる、ということです。日々の活動の中で、折に触れて分かち合いの時を持つこともそうです。年に一回、歓送迎会シーズンや忘新年会の時に思いを語りあう場を設けるのも一案でしょう。また、団体で行う合宿の飲み会の時に単に楽しく騒ぐだけではなく、しっかりと語らいの時をもつ。それも一つです。

 もちろん、全ての「語り」の場をオープン化すべし、と言いいたいわけではありません。プライベートな空間での語りがあって当然ですし、そうした場だからこその「語り」もやはりあるでしょう。しかし、そうした閉じられた空間「だけ」になってはいけないのではないか、自戒も込めて、そう思うのです。

 先日、学生団体のインナーコミュニケーションデザインについてお話をしていた時に思ったことでした。