「やりたいかどうか」から「やる意味が見いだせるかどうか」

 学生の間で就職活動に対する危機感は膨らむばかりです。有効求人倍率も下がっており、当然のことではあります。しかし、必要以上に危機感を持っているようにも思えます。様々な機関や人々によって、「煽られている」なぁと思わざるを得ません。その煽りは「自分は就職できるかどうか」「自分は役に立つ人材かどうか」といった不安はもちろんですが、「真剣に」仕事を探すものにとっては「やりたい仕事を見つけられるかどうか」「やりたい仕事に就けるかどうか」といった不安が大きく増幅するようなものが大半です。


 キャリア教育の中で喧伝される「夢を持って生きよう!」「やりたい仕事を探そう!」というメッセージそのものは根本的に間違っているものではないでしょう。しかし、そうしたキャリア教育を受けてきた若者を見ていると、正直に言えば、どこかしんどそうだなぁと感じてしまいます。「夢」や「(本当に)やりたいこと」など、そんな簡単に確定できるわけではないでしょう。学生時分に持っている、狭い世界観の中で形成されている「夢」や「やりたいこと」は一生続く訳ではない不確実なもので、その不確実性に自覚的な真面目な学生ほど「本当にそうなのか?」と悩みのループにはまってしまいます。


 私自身、学生の頃から一定の方向性は持ちつつも、「やりたいこと」や「夢」は緩やかに変わっていったり、増減しています。それは、大学を出た後の仕事の経験や様々な出会いによってもたらされた変化です。自分の個人体験をいきなり普遍化して話すことには乱暴であることは自覚しつつも、この変化の実感から今の学生さんには「夢」や「やりたいこと」を大切にする、というメッセージは大切にし続けて欲しいけど(ここは大事な前提)、就活の中でそれらに拘泥しても「損」をするリスクが大きいことは伝えたいなと思っています。


 学生さんに「働く」ということについてお話しすると、最後に「10年後のビジョンは?将来の夢は?」と聴かれることがよくあります。上記のような考えかたですから、実は毎回、どうお答えすべきか、迷います。組織として事業戦略像はありますが、私個人の「働く」ということについてのビジョンや夢となると、全くない訳ではないものの、そこまでこだわっているものではないからです。


 昔、自分は就職面接で「将来、何したいの? いつ辞めるつもり?」と聞かれたことがあります。その時に「正直に言えば、分かりません。どのような経験をこの職場で得られるのか分かりませんし、例え、得られる経験を予測できても、その中で自分がどのようなことを感じ、想い、目指すようになるのか、分からないからです。今の段階で考えていることは言えますが、それは変わるものという前提です。その上で、今考えていることを申せば…」とお答えしました。この回答が適切であったのかどうか、それは分かりませんが、雇っていただくことにはなりました。今でも、こうした「先読み」に対する感覚は同じです。


 では、闇雲に仕事を選べというのか?と質問がきそうです。そうではありません。「やりたいかどうか」という軸ではなく、「やる意味が見いだせそうかどうか」という軸を提案したいと考えています。「やる意味」の見いだし方は多様です。社会的な意味を見いだす人もいるでしょうし、将来的な転職の観点から意味を見いだす人もいるでしょう。経済的な意味の見いだし方もあります。その他にもいくつかの意味の見いだし方はあります。何はともあれ、「やる意味」が見いだせていれば、その場で主体性を保持してがんばれるはずです。自分らしい意味の見いだし方をつくるには、大まかな「働く」ことにおける方向性の(ある程度の)定立が求められますが、「夢」や「やりたいこと」ほどの具体化は必ずしも求められるものではありません。その程度の曖昧さが「船出」にはいいのではないかと思います。

 
 そうした一定の方向性の中で、いろいろなことに身を投じて、「どうしても気になってしまうこと」や「やらねばと思うこと」や「やりたくて仕方ないこと」が浮かび上がってくるはずですので、それを手がかりにして、「夢」なり「やりたいこと」に接近していければ、御の字でしょう。


 もちろん、意味というのは「あるもの」を見いだす、というだけではなく、「見いだしたいもの」を自らの手で「創りだす」ということもできるものです。見いだしていた意味がなかった/なくなった時であっても、自らの手の内に可能性が広がっていることは、忘れたくないところです。そして、それくらいのバイタリティは欲しいところです。