カタチにする「思い」の勘違い

 企画は「思い」をカタチにするもの、と言われますし、僕もそのように説明します。


 この「思い」というものには、純粋に「私は〜したい!」だけの個人的な欲求の思いと、「私は○○が△△になって欲しい!(○○が△△になるためのことを私がしたい!)」という利他的な思い(ある種の「願い」)とがあります。前者は「外国人の友達が欲しい」「いろんなキャリアの人と話してみたい」「スキルアップしたい」「でっかいことをしたい」というものが挙げられるでしょうか。ボランティア活動は、私の「思い」を大切にして企画されるものですが、その時に言われている「思い」は後者のそれに中心があるものです。もちろん、個人的欲求を全く無視することはないでしょうが、個人的欲求の思いが利他的な思いよりも優先されることは「ない」でしょう(ただし、当事者グループであれば話は別です)。


 僕は大学1年生の頃、それはまだボランティア活動を初めてそんなに時間を経ていない頃ですが、先輩から「お前が『楽しみたい』とか『能力をつけたい』なんて思いに、子どもをつきあわせるのか?もし、そうだったら、子どもにとって、いい迷惑になるだろ。だから、第一に子どもにとって今何が求められているのか、子どもたちにどういう機会を提供したいのかを考えろよ」と言われたことを今でも鮮明に覚えています。滅私奉公ではない自己実現のためのボランティア活動という言説が盛り上がっている中で、ちょっと勘違いしかかっていた自分にとっては、ハッとさせられたものです。「私」発の利他的な思いの実現が、「自他満足」(岩本悠さん)を生むということ、そのことを見過ごしかねませんでした。


 では、「私は○○が△△になって欲しい!」という利他的な思いは、どのようにすれば明らかとなるのか。「明確に」「自信をもって」「自分の言葉で」、自分の利他的な「思い」を語れるほどに形成されるためには、広義で捉える何らかの「体験」(を通じたニーズとの出会い)が求められることでしょう。その「体験」の時として、「思い」を醸成する時として、春休みを学生の皆さんには過ごして欲しいなと願っています。もちろん、「思い」がすぐに明確になったり、確信できるようになったり、やるしかない!とウズウズするほど成長する、ということはありません。「こうかな?」と思ったら試してみたり、少し先を行く先輩と議論してみたり、「やっぱり!」とか「ちょっと違うな」とか言いながら、接近していくものでしょう。


 「こうかな?やっぱり違うかな?」と品定めに時間をかけることは、お勧めしません。「こうかな?」と思うのであれば、まずは「やりきってみる」ということです。「やりきる」ことで初めて、自信をもって「これだ」とも「これではない」とも言い切れるようになるでしょう。中途半端に動いていれば、当然のことですが、中途半端な確認しかできません。「やりきってみる」際には「ふりかえる」ことを忘れずに、という条件付きですが。ただ一つ厄介なのが、「やりきってみる」と動き出すと、あれもこれも!と「思い」が膨らむことがあり、優先順位/劣後順位をどうつけるかは悩まされるところ。でも、それは収穫として考えたいものです。


 唐突ですが、シチズンシップ共育企画では、学生ボランティア団体の合同マネジメント研修「ユースナレッジマーケット」を年間何回か行っています。この研修は、企画立案も参加者募集も事務局も幾つかの学生団体のリーダーと一緒に行っているもので、参加団体のいま抱えている課題にできるだけ沿うかたちでプログラムを設計します。で、以上のお話は、先月行ったユースナレッジマーケット#12「2010年度の活動基盤を鍛える!」の時にお話ししたことを少し膨らませたもの。カタチにする「思い」を勘違いする、というのは、学生ボランティア活動の中で留意すべきの一つでしょう。


 他団体の学生ボランティア活動の支援を始めたのは2001年ですが、10年目の節目を迎える2011年をめざして、この10年間の学生団体支援で得た上記のような気づきも交えた本をまとめたいなと企み中。出版企画は何度も挫折していますが、今度こそ…はい、がんばります。


 なお、ユースナレッジマーケットの枠組みに興味アリという学生団体のリーダーの方、ぜひご一報を!2010年度は、ちょうど来週から企画が始まりだします。