「親切な授業」が学ぶ力を奪う!?

 最近、大学の授業はとっても「親切」です。丁寧につくりこまれたスライドやレジュメで講義がされ、あげくの果てに、スライドがそのまま配布されることも多いですね。最低でも高校までは自分でノートに書き写していたような板書内容事項もレジュメで予め学生に配られます。授業評価の中で、授業方法の改善についても声が寄せられ、真摯にその声にお応になる先生方も多くおられます。



 私も期末の大学が実施する授業評価だけではなく、毎回の授業でコミュニケーションシートを取り入れており、学生から授業に対する要望などの声も聞いています。「スライドの資料が欲しい」「板書もして欲しい」「講義内容のボリュームが多い」「専門用語や英語はできるだけ使わないで欲しい」「もっとわかりやすく!」など、本当に多くの声が寄せられます。



 そうした、敢えて書けば「お客さまの声」に対し、私はその学ぶ場の目的や目標に鑑みて、是々非々でお応えしています。なぜならば、そのように学び手を「お客さま/消費者」として位置づけ、何でもかんでも要望通りに答えていけば、それは結果として、学び手の学ぶ力をはぎ取り、また同時に教え手のサービスに依存させることになるからです。



 スライドがないと、集中力が持続できない。スライドの配布資料がなければ、話をきけない。板書がなければ、メモをとれない。自分のキャパシティを超えても食いつくということをしない。聞いたことのない言葉で分からなくても調べようとしない。「わからないもの」と格闘する自学自習をしない…など。



 自分が高校三年の時に受けた世界史の授業は強烈でした。「不親切」きわまりない授業だったのです。間違いなく大学(院)の専門科目なみの高度な授業で、難解なターム(日本語のみならず英語からドイツ語まで)が連発されるのにも関わらず、先生は教壇に手をかけてピクリとも動かさずに、淡々と相当なボリュームを一気呵成に講じて45分。その授業で私は「アカデミズム」というものに触れ、専門的に学ぶ/捉えることの面白さを知ったのですが、毎回の授業は脳がとろけるかと思うほどのハードさでした。



 しかし、その「不親切さ」が、私の「学ぶ力」を鍛えたとの実感があります。そう考えると、よりよいサービスを、ということで「親切」に要望に応え続けていくことは、ある種「学ぶ力」を鍛える機会がなくなっていくことになりはしないでしょうか。「学習者中心主義」と「お客さま第一主義」は似て非なるものだと私は考えています。



 そうしてはぎ取られた学ぶ力の一つに「メモすること」が、自分はとても気になっています(他にも山ほどありますが)。学校の授業のみならず、社会教育の場でもそうなのですが、講義/講演を聞きながら、メモをとらない人が意外に多くおられます(昔に比べてどうこうというのは分かりません)。



 いや、「とらない」のではなく「とれない」と言った方が適切なのかもしれません。話者の話を聞きながら、自分が「これは!」と思ったところについて、その内容と自分の考えの要点をメモし、講義/講演の内容を再編集する。そういう学び方を身に付ける場がなかったと考えられます。



 興味深いのは、そういう方々でも「板書」すると、メモされることがあります(大学は多い)。初等中等教育で「板書されること=大事なこと=ノートすべきこと」と身体化されてしまっているのでしょう。先生も板書を書き写させることを進めることが多いでしょう。そのこと自体が全てNGだとは言いません。しかし、このように「(いい)板書」に馴染みすぎれば、何をノートすべきかを考え、教え手(話者)の提供している知を、わたしはどのように受け止めるかを明確にしていく、そうした力を育む機会を失うことになります。



 授業力の向上がアイロニカルにも学習力を奪うことがある。もちろん、学び手の現状に即しながら、学び手の声を聴きながら、教員やファシリテーターは学びの場づくりを進めていくべきでしょうが、上記のリスクもよくわきまえておく必要があるようにも思います。