腰をおちつけて、ゆらぐ/もがく。

 先日、ある若者との対話を通じていての思索。「私は何ものか?」「私は何をするために生を受けたのか?」と悩むにあたって、「腰をおちつける」ことができているかどうかが、その行為の深みに違いを生むように思います。



 「私は何ものか?」「私は何をするために生を受けたのか?」というアイデンティティを巡る悩みは、若者にとって大きな問いであることは言うまでもありませんが、決して青年期特有のものではなく、一生涯つきまとう問いです。



 とはいえ、上述の通り、特に青年期はその悩み/問いへの答えを見つけるために、大いに「ゆらぐ/もがく」ことになります。最近はその際に「あれでもない、これでもない」と、腰を落ち着けずに「体験リストづくり」にいそしむ若者が増えています。ちょっと手を出してみて、「これは私のやりたいことではない」と切り捨てたり、「この体験から学べることはこんなもんだろう」と分かった気になって切り離したりして、「新たな体験」を求めて浮遊する感じです。



 しかし、そうした腰を落ち着けない浮遊は、自己との向き合い(格闘)が不十分になります。「ゆらぎきる/もがききる」ためには、自己と向き合いきるには、格闘しきるには、「腰を落ち着けて」一つの体験にしっかりと身を投じて、自分を出し切ってみて、悩みきることによって可能となるものでしょう。



 印象論で申し訳ないですが、私が肌感覚で感じ取っている、ここ数年の学生文化の変化の一つには、体験を時間投資対効果で判断する感性が高まり、「この体験に取り組むことで(就活で/人生で)何のメリットがあるのか?」を問うようになっていることがあります。そうした感性はリスクヘッジとして、幾つかの体験の場を同時に持つことを促すことになり、兼サークルが進むことにつながります。



 シチズンシップ共育企画にも兼サークルの学生さんが多く、彼女ら/彼らの貢献によって、わが団体の活動が成立していることもあり、一概に否定はできないのですが、この展開をそのまま是認していいのかは考えどころです。



 私も学生時代、幾つかの活動に首を突っ込んでいましたので、今に始まった話ではなく、きっと流れが加速していっているだけなのでしょうが、少なくとも私の場合、軸足の置き所は明らかとしていました。今はこの活動でしっかり身を投じる、ということが、案外明らかでした。



 将来への不安を必要以上に増幅されている若者に、「腰をおちつけたゆらぎやもがき」の価値を、どう明らかとし、伝えていくのか、今後の課題の一つです。