文学的想像力による批判

 「50年後にわかるかもしれないことを書けるのは新聞記事ではなく小説でしょうね。」



 本日の朝日新聞の「食と農の昭和史」という特集記事の中にあったフレーズです。「確からしさ」を意識すれば社会科学による大胆かつストレートな問題指摘や予見はしにくくなっています。しかも、その言論が何らかの利害に直結する場合、「確からしさ」への不安が表現をマイルドなものにし、際が立たなくなることも多いでしょう。



 「文学的想像力」だからこそ言ってのけられる時代批評/社会批評に対し、そのニーズは高まっているようにも思えます。そうした批判性を宿した(文学を含めた)アートによる時代/社会の描きだされ方には、誇張や飛躍があるかもしれません。しかし、それは全くの虚構ではなく、どこかで実際社会と地続きであることが多いのではないかと思います。それ故に「ハッとさせられる」のでしょう。



 時に私の語りもまた例外ではなく、無根拠で感情的/印象的な議論が多い中にあって、実証性にこだわりをもって節度のある議論を進めることは大事なことでしょう。しかし、実証性へのこだわりが足かせとなり、想像/議論の自由が萎縮してしまうことも問題でしょう。



 小説を殆ど読まない自分としては、文学的想像力やアートの表現力というものに、もっと関心を払わねばと思わされました。



 科学は、仮説と検証を何度も繰り返しながら得られた結果で社会に訴えかけますが、「芸術家」は出来上がる作品のイメージを直観的に予測しながら社会に影響を与えていきます。(ロバート・パーシング『禅とオートバイ修理技術』)