国民意識の解体の2つの方向性

 今週の甲南女子大学の授業でお招きしたゲストの方の在日外国人支援の活動に関するお話を補足する講義として「アイデンティティ」について、来週話そうかと思っていたら、書店でC・ダグラス・スミス/姜尚中萱野稔人『国家とアイデンティティを問う』(岩波ブックレット、2009年)という本を発見し、入手。



 仕事の息抜きにと軽い気持ちで読み出したら、これが面白くて、一気に読み込んでしまいました。特に興味深かったのが、姜尚中さんの「ナショナリズムなきステーティズム」という考えです。



 近代国家、つまり「国民国家(nation state)」の「国民と国家が肉離れ」していると姜さんは述べます。現代社会では、既に「ネーション(国民)」はまとまりのある統一体ではなくなっており、国民意識によるナショナリズムではなく、国家意識によるステーティズムが今の国家主義を生んでいると論及します。だからこそ、過激な言説も含め、国としてのまとまりを(国民意識が解体されつつある市民に)上からかぶせるための歴史/文化が語られると。



 ステーティズムにどう対抗するのか、という問題は残りますが、ひとまず、それを横において、ここでは「ネーションの解体」というところに注目をしたいと思います。



 一見、国民意識の解体は、脱ナショナリズムの動きとして、歓迎されるものかもしれません。しかし、よくよく考えてみると、国民意識の解体には二つの方向性があるように考えられます。



 一つは「拡張による消散」です。ワレワレ=国民という固定的な認識が解除されることで、グローバルな世界の一員(コスモポリタン)としての意識でもって「ワレワレ意識」を拡張させていき、国民連帯意識をグローバルな連帯意識へと変化させていく方向性です。



 もう一つは「分断化による解体」です。これは、姜さんが前掲書で述べていることと重なるのですが、(新自由主義的な社会の中で)個人が原子化していき、「ワレワレ意識」が失われていき、何でも「わたしはわたし/あなたはあなた」と個別化(分断)していく方向性です。



 ネーションの解体は両方の方向性に転ぶ可能性を持っています。しかし、何の根拠もない印象論で誤認かもしれませんが、私は後者の流れが現代日本社会では強いように感じています。もし、そうした「分断化による解体」によって「ワレワレ意識」が消散していけば、人と人とが(単に認め合うだけではなく)支え合う「社会」という概念は空洞化していきます。 



 国民意識に囚われない市民の誕生は歓迎すべきことですが、そこで同時に「連帯性」まで放棄されないように、留意する必要があるのではないかと思います。ネーションに宿っている連帯性を保持しつつ、ナショナリズムを乗り越えなければ、他者との関係性を分断的なものとして捉え、競争/排除の論理で向かい合うことを基本形という社会を招きかねません。そこでステーティズムに足をすくわれてしまうと、より危険です。



 どのようにネーションという概念を失効させていくべきか。そのようなことを考えさせられる読書の時間でした。



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