承認を安売りしてはいけない。

 ボランティアでがんばっていると、社会の中で<承認>を得やすい。「ボランティアしてるんだ、すごいねぇ〜」と何度となく自分も言われてきた。しかし、ボランティアをしているというのは、ある一つの「行為」に過ぎない。それは「部活している」とか「バイトしている」ということと同じ「行為」の一類型に過ぎない。部活やバイトなどは「成果(簡単に言えば成績)」が出なければ、その行為自体で社会から認められるものではない。部活や仕事はどんだけがんばっても、成績が出なければ、社会からの承認は得にくい。がんばったことは自分自身の中での納得か、或いは身内からの承認に留まるものであろう。



 にも関わらず、ボランティアというのは、ある程度、がんばって取り組んでいれば、成果がそこまで問われることなく、幅広く認められやすい。そこには、仮定として、ボランティアをする=他者/社会に貢献する、という等式が存しており、やっているだけで、何か役には立っているんだろうと思われているからかもしれない。「自己犠牲」の上に成り立っていると思われているのであれば、それだけ「犠牲」を払っいるということに敬意を表されているのかもしれない。



 しかし、成果を吟味することなく、社会からの<承認>がいわば「安売り」されていく現状には違和感を覚えざるをえない。それは「自己概念の肥大化」や「活動の成果より自らの努力ぶりを優先する思考」を招くことにはならないか。「これだけ社会に認めてもらっている自分はいい人間に違いない(いい人生を送っているに違いない)」とか、「自分はこんだけがんばっているんだから認めてもらってよい」といった、そういう考えの素地形成につながらないか。



 もちろん、何でもかんでも成果でもって承認が成されるべきとは思わない。ボランティア活動における「成果」は、ソーシャルインパクトのみならず、その行為を通じた気づきや学びによる関わった人びとの主体変容などもまた含まれるものであり、可視化に馴染みにくいものもある。しかし、どうも「ボランティア」とか「社会貢献」というものだけが、社会の中で特別な扱いになっていることには、しっくりこないのである。



 ボランティアという行為をどのように「承認」していくのか。ボランティア学習や市民教育に関わるものとしては、様々な角度からの検討していかねばと思っている。過大でも過小でもない「たしかな自己概念」の形成を促し、目指すべき社会像や活動の成果に向かって「いま私は何をすべきか?」というミッションから自らの行動を組み立てていける態度形成を促していくために、ユースワーカーはどう関わるべきなのか。まだまだ自分自身、試行錯誤しているが、検討は怠りたくないものである。



 「こんな小さな働きをしている自分になぜだろうか?」と、ある表彰式に招かれて、自問自答。