学祭で講演します。

kgu.jpg 今年の母校・関西学院大学の学祭(新月祭)の講演会でお話しすることとなりました。11月1日(日)13時〜14時40分、場所は関西学院大学西宮上ヶ原キャンパス第5別館第3教室にて、です。



 なんでも、いま、関学の学食に行くと各テーブルにそのことをお知らせしている案内があるようで、そのことをうちのボランティアが教えてくれました。一青窈さんのライブの案内などと並んでいるようで、なぜか、ちょっと恥ずかしい。笑



 テーマは「はたらく」ということ。僕がプライベートな飲み会の席上以外で、このテーマで講演をするというのは、とっても珍しいことです。タイトルは「流される人生か?流れをつくる人生か?」としています。興味ある方、ぜひ遊びに来てください!



 いま、何をお話しようか、練っていますが、「流れをつくる」ということは、一人でなされることではない、ということは必ず触れようと思っています。



 自分自身、いまなお、悩んだり、考えたり、試行錯誤したりしながら、働き、そして生きていますが、ふりかえれば、僕はいつも「他者からの期待」に背中を押してもらっていることに気がつきます。



 「川中くんには、これに取り組んでほしい!これには取り組んでおかな!」という先輩方の多くの期待をいただき、それにお応えする中で、自分の進むべき道は見えてきましたし、専門性の幅が広がったり、磨かれたりしました。時にご叱正もいただきながら、社会人としても鍛えられました。



 こう書くと、「それって流されてる人生なんでは?」と思うかもしれません。しかし、そうではありません。他者が自分に期待を寄せるからには、何らかの理由があります。僕が明に暗に言ったことや取り組んだこと、それが呼び水となって、お寄せいただく期待は、他者の期待と自分の思いがつながっています。ですので、「自分はどう期待されてほしいのか?」というイメージを、ぼんやりとであれ、持ってきたとは言えます。



 もちろん、予想外な期待や「うん?」と思う期待もありますが、ひとまず応えれる範囲でがんばって応えてみると、「あぁーそういうことやったんかー」と、後々で自分に生きてくることもあり、自分が期待した「他者の期待」にだけ応えてきたわけではありません。自分を閉じずに開いておく。それが大切かなと思っていますので。



 …おっと、あんまり書きすぎると、講演会で話すネタがなくなってしまいますね(笑)。続きが聞きたい方は、ぜひ関学にお越しください!



 <わたし>はだれかという問いは、したがって、わたしの自己理解のなかにあるのではなく、他者がじぶんを理解するそのしかたのなかにあるのでもなく、その二つが交錯し、せめぎあうその現場にこそあるといわねばならない。<わたし>はじぶんがそうおもっているものでもないが、他人がそうおもっているものでもないのである。鷲田清一『だれのための仕事』岩波書店、1996年、p.168)



 ちなみに、最近、特に考えさせられているのは、自分に神さまから与えられているミッションとは何か?ということ、つまりは、神さまから与えられている命の使い道として、何が神さまに期待されていることなのか?ということです。



 「生かされているもの」としての気づき、そのことへの感謝が、そうした問いを示してくれます。秋は考えるにいい時期だなぁと、つくづく感じます。



 わたしは与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて、慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたつの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれに異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。(ローマの信徒への手紙 12:3-8)