小学校で「学ぶ」ことを学ぶ

fusho.jpg 先日、ユースACTプログラムの企画で、野池さん(きょうとNPOセンター)と「自分が受けた小学校教育」について対談しました。野池さんと私は違う小学校に通っていましたが、その教育のコンセプトは「総合学習」で共通。



 これまでも、シチズンシップ共育企画のこのページなどでも触れてきましたように、自分にとってデューイの教育哲学をベースに据えた小学校での総合学習が、今思えば、自分のルーツであることが分かります。



 今回は、せっかくの機会だということで、これを機に自らの経験をナラティブに語る「学び手」の視点のみではなく、その経験の場をどういう意図でつくっていたのか?という「教え手」の視点でも捉え直してみようと思い、母校の教育実践に関するいくつかの研究書を読んでみました。



 ナショナル・カリキュラムが早くから定められている日本では、「どのように教えるか?」という教育技術(方法)への関心に傾きがちですが、母校は戦前からカリキュラム研究に非常に熱心な学校であったことが、今回いろいろと読んでいてよく分かりましたし、目指す子ども像から何から何まで一つひとつに対して「よく考えが練られているなぁ」とすっかり感心させられました。



 例えば、驚いたものの一つとして、目指すべきとされていたクラス像があります。神戸大学発達科学部附属明石小学校研究会編『生きる力を育む総合学習の展開』(東洋館出版社、1997年)によれば、総合学習が具体化しているクラスは、(1)教員と学習者がともに課題を追求し、文化を創造する空間になっている。(2)地域に出て、地域の人びとに学び、地域の人びととともに学ぶ(そこでは教員も学び手になる)。(3)授業評価は、学習者に対してだけではなく、教員に対してもなされ、学習者とともにどれだけ学び、新たな文化がどれだけ創造できたかが問われる。(4)教員と学習者はともに、「変化」への戦略を立てられる資質を培う、というものだと定義付けされています。いずれも、今なお「新しい」考えかたばかりです。



 今回の対談では、こうした「教え手」の視点の話は少なかったのですが、終えてみての感想は、「学ぶ」ということを学ぶ、そんな小学校だったのだなと実感しました。「学ぶ」とはどういうことなのか?「学ぶ」ためには、どのようにすべきなのか?そして、「学ぶ」ということと「生きる」ということがどうつながっているのか?。「教え手」の表現で言えば、こうした投げかけがヒドゥン・カリキュラムにあったように思います。



 鶴見俊輔さんは『教育再定義への試み』(岩波書店、1999年)の中で「教育をはじきかえす野生の力」を「反教育」という概念で提示しています。同書で示されたもとの意味からは少しずれるかもしれませんが、私は小学校教育の中で、この「反教育」の力もまた育んでいたなと。



 中学校では、「何のため勉強しているのか?」がよく分からず、「発見と創造のおもしろさ」から遠ざかっていく、そんな試験勉強のための学びに対し「こんな教育はアカン!」と批判し「もっとこうすべし!」と提起し続けましたが(高校時代にまでそのモードは引きずりました…)、それは「反教育」の現れでした。



 その「反教育」の現れの中で「教育のありかた」や「学びのデザイン」への関心が深まっていき、高校・大学での実践と研究を通じて、今のワークショップやファシリテーション、そして「市民教育」といったキーワードに辿りついています。



 鶴見さんは前掲書で「言葉による教育」を越えた「自分の中に反射として残るようなしぐさによる教育」といった概念も提示していますが、私にとって母校での学びは、まさにそうしたものであったのでしょう。



 もちろん、そうした学びは、中学生/高校生/大学生/社会人になってからでも遅くはありませんが、その場合、それまでの教育での学びを「まなびほぐす(unlearn)」機会をきちんとつくらないといけないでしょうね。



 いま、大学で授業をする時に、社会教育の場でワークショップをする時に、その「まなびほぐし」をどのようにするのか?、いつも考えさせられます。教育ファシリテーションの大きなテーマになると思います。仲間と一緒に探求していきたいものです。



 学を為すには、人の之れを強うるを俟たず。必ずや感興する所有って之を為す。佐藤一斎/江戸後期の儒者