ことばの貧困/追求の貧困

 「まじ、ヤバいっす、これ!」「ほんまや、ヤバいわ〜」

 「キレイやねぇ。」「うん、キレイキレイ。」

 「なんか、イヤやなぁ」「ふーん、イヤなんやぁ。」



 こうした会話はよく聞かれるものでしょう。僕もそういうやりとりをしていることがあります。しかし、最近「それでええんかな?えっ、それで終わり??」と思うことがあります。なんか会話の中のボキャブラリーが少ないなと。



 自分が感じたり、考えたりしていることを表現する「ことば」のボキャブラリーが少ないので、なんでも「ヤバい」の一語になっていくのですが、僕が本当の意味で違和感を感じることは、そうした「ことばの貧困」そのものではありません。



 確かにそうした「ことばの貧困」に違和感を持ちますすが、「何が/どうよいのか?」「なぜ、それをよいと感じているのか?」といった言葉の背景や奥行きといったものに、なぜ関心を持ち合わないのか?ということの方が、強い違和感を抱きます。



 他者が発している「いいね」という言葉と、自分が「いいね」と発する言葉のイメージは必ずしも同じとは限りません。高台から海を見渡して「いい風景だね」という言葉が発せられている時、その「いい」が指しているものが、「広く見渡せる眺め」なのか「海の蒼さ」なのか「海面に反射する陽の光」なのか「こうして一緒によい風景をみて、あったかい気持ちになれること」なのか、必ずしも一致しているとは限りません。しかし、それが問われないまま、「なんとなく」分かった気になって、過ぎ去っていくわけです。



 なんでも「ことば」にせよ、ということが言いたいのではありません。もちろん、語らずして、そのことを共有できる間身体的なコミュニケーションや深いやりとりもありえます。しかし、すべての場面でそんなことが起こっているとは思えません。



 「ことばの貧困」の背景には、実はこの人の発している言葉をもっと分かりたい、その人と分かりあいたいという、深い理解を求める「追求の貧困」があるのではないか。そう思うのです。これは日常の会話のみならず、学術的な専門用語に関心をなかなか示してくれない学生さんを見ていても思います。



 「ことば」は私と他者のつながりを深めていくものであったり、学術的な概念であれば私と世界のつながりを深めていくものです。他者を近づけていく/世界を獲得していく、そうしたメディアとして「ことば」を使わないのは、その機能に気づく機会がなかったのか、あるいは、他者/世界への関心そのもの低下なのか、あるいは他の理由からか。なぜなのでしょう?



 もしかすると、子どもの頃から、親や大人、友だちから、いい意味で追求される経験がないと、「そんなもんで人間関係って成り立ってるもんや」と思ってしまうのかもしれません。時折、僕は「よかったっす」という言葉を発した学生さんに、ついつい「どこが?どんな感じで?もうちょっと聴かせて」と言ってしまいますが、そういう時、必ずと言っていいほど話者は「えっ?」と一瞬戸惑って「そうですねぇ…」と語り始めます。



 自分が言葉を発する。そしたら、それを聴いた人が何らかの受け止めをする。そして、その受け止められた人から「その人の」言葉のレスポンスがくる。そのレスポンスに、また返していく。そんなキャッチボールではなく、投げっ放しのコミュニケーションが、もしかしたら多いのかもしれません。



 例えは違いますが、「ヤバいっすね」の言葉の先には、「あなたはどう思うの?」という問いではなく、自分の気持ちを肯定する「そうやね」という答えしか求めていないのかもしれません。「そうかなぁ?」などと返すと、「空気、読めよぉ〜」となるんでしょうか。そんな空気のもとには、お互いを理解しあおうという追求がありません。そんなところで、ことばが膨らむわけがないでしょう。



 ことばの貧困は多くの人が問題にしています。しかし、だからといって、言葉を覚え込ませたり名文を読ませるだけではなく、そうした個人作業だけではなく(それがダメというわけではないですが)、「もっと言葉を豊かにしたい」と思えるような、他者との協同体験の中での試行錯誤も必要だと思います。



 まずは、同じ言葉を使っていても、私とあなたでは違うイメージをもっているかもしれない。そのことの気づきです。「で、どうするか?」そこから表現への探求が始まるのだと思うのです。



 みなさんは、どう思いますか?