何がにじみ出る人生か?

 秋になってきたな、そう感じます。朝晩(最近は日中も)、涼しくなってきましたし、空も高くなってきました。そういう自然の移り変わりからも秋を感じていますが、自分の場合は、ワークショップや研修の仕事が「シーズンオン」になってきたことの方が、より秋の到来を実感させられています。シチズンシップ共育企画のウェブサイトにどんなところで、どんな仕事をしたのかはアップしていますので、ご覧いただければと思います(…最近はウェブでは報告していない会議出席も増加傾向ですが)。



 シーズンオンとなると、どうしても気を張ることが多くなりますが、でも、この仕事の「ありがたみ」を一杯味わえるようにもなります。この仕事は、ワークショップを通じて(準備も本番も!)、自分自身も考えさせられたり、気づいたり、学んだりすることが多く、自らの刷新の機会を得られます。



 そんなファシリテーター業の僕のデビューは2001年でしたので、今年で9年になります。そろそろ10年の節目。



 10年くらいは「下積み修行期間」だと思って、とにかく何でもやってみようと、本当に様々なワークショップのお仕事に取り組んでいます。もちろん、ファシリテーターの修行に終わりはないのですが、次の10年は「下積み」を踏まえて、自分の仕事の柱をもう少しシャープにしていこうかどうか、最近考えています。



 ちょうど先日一緒に飲んだ友人が「『自分の仕事』を積み重ねていくと、こいつはこういうことを表現したい奴なんやな、ということがにじみ出てくるよね。」というような話をしてくれました。とっても共感すると同時に、では僕は今の段階で何がにじみ出ているのか?/これから何をにじみ出していくのか?、その問いが自分の前に立ちました。



 いま、年間で80本程度(大学の授業75コマは除く)のワークショップを担当していますが、多くがご依頼いただく場です。「自分が何を表現したいのか?」ということがにじみ出るには、そうした与えられる仕事「だけ」ではなく、自分の内奥から発せられる仕事をもう少し増やしていかなければならないでしょうね。



 もちろん、単純に数を増やすだけではいけないでしょう。諸々の制約条件やニーズの社会的動向、採算性、集客見込みなどを見極めている内に、ついつい「おとなしい表現」になってしまうこともあります。「これでどうだ!」といった「トンがった表現」(時に「わがままな表現」)にも挑戦していかなければならないのでしょう。



 では、具体的にどういうテーマで?何を表現する?となります。そこが思案のしどころ。



 これまで自分は「市民教育」を足場にしつつも、教育や環境、福祉といった特定の「職域(テーマ)」ではなく、ワークショップ的な「場づくり」といった様々な職域を横断する「職能(スキル)」で専門性を磨いてきました(これは意図的にです)。そんな中で、シチズンシップ共育企画のコーポレート・アイデンティティとして「じぶんになる、しみんになる。」という言葉を立て、「学ぶこと」や「社会に関わること」、「他者と対話/協働すること」が面白いものだと感じてもらえる場づくりといった方向性を「自分の仕事」として言い表してきましたが、もう少し、具体化/結晶化を進めていきたいと思います。



 ちなみに、僕の仕事の大半を占める、マネジメント研修は「その人の活動(仕事)」を揺さぶる機会にはなりますが、「その人自身」を(直接に)揺さぶる機会にはなりにくいものです。「活動」と「個人」とは不可分の関係にあるものだと思っていますが、「個人」に焦点をあてたワークショップも、もう少し取り組んでいきたいなという気持ちが高まってきています。



 その意味では、年一本とゆっくりと展開している「生と死の共育ワークショップ」はそういうものの一つ。丁寧に育て上げたいものです。