「センスの共同化」とアート

ind_p021.jpg 先日、シチズンシップ共育企画のメンバー2人と一緒に兵庫県立美術館の『20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代」展』に行ってきました。ピカソもクレーも僕が好きなアーティストなんですが、その二人の作品をはじめ、貴重なものがドイツから来ている、ということで、これはもう観に行くしかないなと。



 いやぁ相当のにぎわいでありました。そんなにぎわいの真っただ中に身を置きながら、みんなは何を求めて美術館にきて、何を感じたり考えたりしてるんだろうなぁとオーディエンスサイドに関心を寄せつつも、しっかり時間をかけて、作品をじっくり堪能。



 ちょっと知識があればよく分かる、というレベルの丁寧な作品解説が全作品に付してあったのが嬉しかったです。おかげで、何度となく「分かる/分からない」を行き来している、フォービズム/キュビズムシュールレアリズムについて、少し理解が深まりました。おかげで、自分が惹かれるものに一筋の道が見えてきました。



 観賞後は、昼ビールを味わいながら、一緒に行った仲間と芸術/社会談義。どんな作品が印象に残ったか、どういう作品に心ひかれるのか、この作品が「表現したかったもの」は何なのか、その「表現の欲望」を掻き立てたのは何だったのか…、と話は展開していき、気がつけば、巡り巡って「貨幣論」や「贈与論」にまで展開していました。



 アーティストが作品にエンコーディングしたメッセージを、読み手である私たちがデコーディングしていく際、当然のことですが、デコード側のもっている関心や感性、おかれている社会環境に大きく左右されます。



 なので、「作品を通じてアーティストと私はどのような対話をしたのか?」をめぐって、交わされる対話を通じて、その人の関心や感性などと出会えることとなります。面白いなぁと思うのは、そうした過程を経て出会う関心は通常のやり取りで見えるものとは少し違ったり、あるいは、同じようなものでも腑に落ち具合が違ったりするということです。



 アート作品と対峙すると「ものの見方」や「表現のしかた」で、「おっそうきたか!」「なんだこれは?」と<ズレ>のようなものを感じさせられます。この<ズレ>が、いつもの語りにはないものを触発するのかもしれません。



 こうして「感性(センス)」を深い部分で分かち合い、すり合わせていく過程は、「センスの共同化」と言える行為でしょう。共同化されたセンス、すなわち「コモンセンス」はコミュニティを形成していく上で基盤になります。その基盤があってこそ、R.M.マッキーヴァーも指摘しているコミュニティに不可欠な「共同感情」を立ち上げられるようになるからです。



 感性がはじけ、交わり、生み出されていく、そうしたセンスの共同化のプロセス自体が一つのアートでしょうが、そうした関係性を育む場を生み出す上で「アート」のもつ力は大きいだろうなと思っています。アートは私たちの関係性をより深いものへと導きます。それは現代アートになれば、一層鋭く示してくることでしょう。



 アートはつねに、そこにないものを語っている。そしてアートの意味とは、作品が「枠」で取り囲んだ、しっかりと捕まえていなければ今にも逃げ去っていくようなものにたいする、自身の直観の中に存在する。(中略)知覚と期待、閃く直観と「美しき誤解」の絡み合った迷路。美術作品から感動を得ようとも、それはこういった錯綜したプロセスから生まれるものなのだ。それはアーティストが「生」や「現実」のまわりの影をなぞって描いた微かな輪郭を、私たちが自らのイメージで埋めていく作業なのである。アメリア・アレナス『なぜ、これがアートなの?』淡交社、1998年、pp.190-193)