「共有」という言葉の多さ

mima09.jpg 先日、美作大学で「ボランティア論(福祉系)」という集中講義の科目の非常勤講師を担当しました。受講生160名超というかなり大所帯なグループではあったのですが、せっかく2日間で集中的に授業ができるので、ワークショップ的な授業にして、その大半をグループワーク(と個人ワーク)にあてました。そのため、シチズンシップ共育企画から2名のスタッフを引き連れての出張となりました。



 とはいえ、受講生の大半はワークショップ慣れもしておらず、人数が多いためにきちんと個別的にフォローできず、最初はかなり戸惑いも見られました…。なかなか試行錯誤しながらの展開でしたが、2日間かけてしっかり馴染んでくれました。みんなが素直に「まぁやってみるか」と引き受けてくれたことによります。いやぁ、ホント助けられました。ありがとう。



 帰路、出しきった「気持ちよい疲れ」を味わいながら、振り返りシートを読ませてもらったのですが、今回印象に残ったこととして「『共有』という言葉の多さ」と書いている人が何人かいました。



 意見を「発表する」ではなく「共有する」という語感が新鮮だったようです。一人で考えて、その考えた個人の意見を一方的に伝えて終わるのではなく、個々の考えを分かち合い、交わらせ、そこから共に考えて、その場で触発されたことにも関心を向ける。学びが個別/孤立したものではなく、関係性の中で育まれるものである。そのことをこれまで味わったことが少なかったようです。



 他の大学の授業で感じたことですが、グループでの議論が「意見のパッチワーク」になることが多く、「やりとり」や「すり合せ」が少ないことが気になりました。その踏み込みがあるからこそ、(混乱も生じるでしょうが)自他で相互に影響しあい、ものの見方に広がり/深まりが出てくるものです。



 もちろん、今回の授業の中で、その深さでの「やりとり」を全員が体験できたわけではないでしょう。しかし「共有」という言葉が心に残った学生が少なからずいたことは、それまでのグループワークで目指されている「やりとり」とは何か違うものを僕たちが期待しているというメッセージを何気なく感じ取ってくれたのかもしれません。



 別に僕らが意識して「共有」という言葉を使っていたわけではありません。知らず知らずに使っている「僕らの文法」から感じとったことです。こういうことが書かれた振り返りシートはおもしろいですねぇ。



 その他にも、今回の振り返りシートはかなりおもしろかったです。授業の「コンテンツ」だけではなく、その場で起こっていた自分自身の感情や思考の変遷であったり、グループの動きであったり、「プロセス」にも目を向けた言葉が多かったからでしょう。



 ちなみに、「この授業では否定されなかった」という言葉を書いてくれた人がいました。これはあくまで僕の憶測ですが、授業の中で自分の考えや答えを出しても「それは(ちょっと)違うよねぇ」「間違ってるわ」「ふーーん(…反応薄)」と、評価する/される(すぐに遮断する)の関係で教員や仲間と対峙してきたのでしょう。



 こういうコメントを読んで、発された言葉に対してすぐに評価を下すのではなく、その言葉を連ね、重ねていく、そんな「学びを関係性の中で育む」世界にもっと触れて欲しい、そう感じました。