理由は「あと」で見える

 僕が仕事をする上で、意識していることの一つに「頼まれた仕事を極力断らない」というものがあります。もちろん、物理的に無理なものはお断りするのですが、そうでなければ、出来る限り向き合います。



 頼まれた時には「なんで僕に?」と思うものもあります。「なんで」という思いは、詳しく書けば、「とても僕じゃ無理じゃない?」とか「なんで自分がする必要があるの?」といった色々なものがあります。



 ですが、「頼んでくださっている」ということは「与えてくださっている」ということであり、何かしらの「期待」がそこにはあります。その期待は過去の成果に立脚した「予想されるものとしての期待」もあれば、未来の伸びしろに立脚した「可能性への期待」もあります。(例えば「ここはまだまだ伸びるんじゃないか」とか「もっとここは伸びて欲しい」といったもの)。



 その期待を寄せていただくことをありがたく受け止めるべきだと思っているのです。なぜならば、「予想されるものとしての期待」も「可能性への期待」もいずれも過去の自分が種となって生まれたものに他なりません。その意味で「自分が蒔いた種」でしょう。



 おもしろいのは、そうした頼まれた背景にある期待や理由、つながりが「あと」になって浮かび上がってくることが少なからずあるということです。この「あと」は、単純に終わった後の「後」という意味と、いくつかの頼まれたことをやりおわった軌跡としての「跡」という意味があります。



 最近、ある方のライフヒストリーを伺う時間がありました。その中で、自分がしたくなかったことも含めて、一見、自分がしたいこととつながっているように思えなかった仕事や出会いが、「あとあと、つながった/活きてきた。」という話があり、自分の実感に照らして、非常に納得しました。



 仕事の選り好みをしたり、事前に納得度をはかることは、自分の時間を大切に使うという意味で、一概に悪いことだとは言い切れません。しかし、それはせっかく「自分が蒔いた種」を捨てることになりますし、可能性を狭めることにもなりますし、期待してくれた人とのつながりを弱めることにもなります。それはそれで「もったいない」と思います。



 われわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。

(V.E.フランクル『夜と霧』みすず書房, 1985年)