シティズンシップ教育はどこで実践的な学びを展開するか?

 大阪教育大学で行われたシンポジウム「シティズンシップ教育とその展望」を聴講してきました。



 基調講演の講師に、ドイツ国際教育研究所のDr. Abs, Hermann Josef氏を迎え、EUにおけるシティズンシップ教育の現状を踏まえながらの議論が展開されました。その詳細については、レポートいたしませんが、本日のセッションで一番私が注目をした話は、欧州でも日本でも若者は政治的な無力感に陥っており、それを打開するためにはどうするか?という部分でした。



 シティズンシップ教育が「やり過ごされない」ためには、若者の中に「社会が変わる!」という実感や信頼を形成しなければいけないでしょう。そうでなければ、若者はいかなる知識も技能も「身」につけようとはしないでしょう。



 ヘルマン氏は言いました。「学校というのは、社会の中の小さなユニットである。学校の中でシティズンシップを発揮し、学校を変えていく中で、効力感は形成されていく。(引用者による意訳)」



 この話は、「学校」という場所が、そこに集う教職員が、学生からの問題提起や提案を真摯に受け止め、変革していくという前提があります。ヘルマン氏は「うちの生徒は政治に関心を持たないし、そんな能力がないという学校と、関心を持たせ、能力をつけさせるのが責任だという学校では大きな開きが出る。」とも述べていました。学校(教員)自体のシティズンシップへの理解が高いところが、既に少なからずあることを暗に示しています。



 果たして、日本の学校(教員)はどうでしょうか。もちろん、個々の先生の理解はあるかもしれません。しかし、組織的な動きにもなれば、(特に公立学校は)多くを期待できないと思われます。



 私がコミュニケーションシートを通じて行った質問が会場で取り上げられましたが、それはどのように教員のシティズンシップ教育を進めるのか?というものです。ヘルマン氏は教員志望の学生をサービスラーニングによって教育すべきだと答えるに留まり、現役教員のリカレント教育にまでは言及されませんでした。「総合的な学習の時間」の導入の失敗(混乱)を踏まえれば、この議論は不可避でしょう。しかし、その方策は見えません。



 ヘルマン氏と同様に私も「小さなユニット」での成功体験が政治的効力感を育んでいくと考えています。しかし、日本の学校教育の現状を踏まえれば、そのユニットのメインフィールドというのは、社会適応志向が中心となっている「学校」の世界内のみではないでしょう。それは「地域コミュニティ」ではないでしょうか。



 それ故に、日本においては、社会教育(Adult and Community Education)でのシティズンシップ教育や、地域コミュニティにおける市民活動との教育協働を通じた学校でのシティズンシップ教育の展開必要性が、欧州よりも高いと考えています。もちろん、ヘルマン氏もそのことは承知のことかもしれませんが、今日の話の中心は「Citizenship Education in School」であったので、ここまで議論が至りませんでした。



 ですが、まず日本では「in School」ではなく「in Community, with Civil Society Organization」ではないかと考えています。もちろん、学校内でのシティズンシップ教育の広がりは歓迎しますし、その必要性は強く共感するものです。また、その実施可能性についても一定水準までは全く問題ないものだと考えています。しかし、本日のヘルマン氏の話のように学校内の実践で「のみ」語れるほどには日本の学校のデモクラシーは成熟しきっていないのではないかと考えているということです。



 シティズンシップ教育という概念自体は、ここ数年で広がりました。だからこそ、今後の課題は、欧州での展開をどのように日本の社会的文脈の中で位置づけるかです。その位置づけの試行の一つとして、シチズンシップ共育企画の活動が貢献できるよう、努めたいものです。