聖書を読むとはどういうことか?

 ふと「聖書」を読む意味について、思いを馳せてみました。



 キリスト教は神さまと「対話」する宗教だと言われています。非常に大雑把な議論ですが、「祈り」は、単純な現世利益を一方的に求める「お願い」ではなく、神さまに向かって私が何をすべきかを問いかけているものだと私は解しています。その「祈り」が通じた時に、神さまからの啓示(つまり「応答」)がある、ということなのでしょうが、こう書いてしまうと「神秘体験」として、いぶしがる方も多いでしょう。



 では、神さまからの啓示(神さまの声)をどのように聞いているのでしょうか。ここからは、あくまでも私見ですが、自らの考えを示してみましょう。私は、キリスト教主義教育の高校・大学・大学院を出ていますが、キリスト教に関する特別な専門教育も受けていませんし、洗礼も受けていません。また、教会にも長らく通っていません。そんな者の考えですから、宗教的に正しいものかどうかは全く分かりません。そのことは最初に断っておきます。



 で、神さまの声というものについてですが、私は神さまの声を聞くというのは、実は自分の「内なる声」を聞いていることなのではないかと考えています。その「内なる声」を発するのは、G.H.ミードの自我/客我の概念で言えば「客我」です。



 客我は「他者の態度取得」を通じて形成されるものですが、聖書を読むという話でいえば、態度を取得する「他者」とは、聖書という「メディア」を通じて、間接的に出会えるキリストであり、また預言者(神さまの言葉を預かった者)であろうかと思います。



 このように考えれば、預言者の言葉が記されている聖書を読んでいくことで、神さまの考えや世界観を内面化していくことが起こり、客我に「神さまの視点」を取り入れていっていると言えます。聖書による社会化、というところです(これが共同体の形成にもつながるのはE.デュルケムの宗教社会学の研究の通り)。



 もちろん、そこで「読む」という時には、「対抗的な読み」ももちろん起こり得ます。しかし、「対抗的な読み」とはいえ、そこでの「読み」はキリスト教という一つの価値観を反射鏡として、自らの価値観を築いていく過程ではあり、信じる/信じないのいずれの面においても、精神的な成長をもたらすことにはつながりそうです。



 この話には、神さまという存在がいる、預言者はその神さまの言葉を確かに預かっている、といった幾つかの前提条件があります。そこに疑義を生じてしまうと成り立たない考えです。



 ある理学者が、「神さまが存在することも、存在しないことも科学的には証明できない。だから、個々人が存在するかしないかを自分で考えるしかない。その判断を科学に任せるのには無理がある」と仰っていました。今の自分は、神さまの存在について、まだ何とも言えない状態です。どう結論が出るんでしょうなぁ。じっくりと自分とつきあいます。