震災の日に読む聖句

 毎年、阪神・淡路大震災の日に読んでいる聖書の箇所があります。



 コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ。すべては空しい。



 太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦は何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが、海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる。



 何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない。かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいことは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも、その後の世にはだれも心に留めはしまい。
旧約聖書「コヘレトの言葉」1:1-11)



 文明というものが、自然の前にいかに空しいものであるのか。人間という存在が、自然界の中にあっていかに小さな存在であるのか。そのことを当時、深く考えさせられました。ボランティアによる「助け合い」の姿に、人間の強さと優しさを感じたのも確かですが、むしろ、当時の私は何ともいえぬ空虚感の中にいました。しかし、たくましく復興していくまちの姿に触れて、その空虚感も減衰していきました。



 そうして、私は当時自らの内にこだました気持ちも教訓も心に留めきれず、日常に戻っていきました。だからこそ、当時の自分の実感に近いこの聖書の箇所が私にとっては「あの日」につながる言葉なのです。このように媒介する言葉と出会えたこと、ありがたい限りです。



 「あの日」、私も死んでいたかもしれません。なぜ自らが生かされたのか。そのことを真摯に受け止め、当時の被災から得た教訓、そしてその後の復興過程から得た教訓を次代に継承していきたいものです。