震災を「語れる体験」の拡張

 「1.17」が近づく中、自分が担当している大学の授業のいくつかで、震災について時間を割きました。



 ある科目では「阪神・淡路大震災の話を踏まえつつ、他地域の高校生に日常的な減災に向けた取り組みの重要性を伝える」というお題で3分間スピーチを小グループ内で全員行ってもらいました。



 学生さんが「語る体験がないからムリ!」と言うので、「体験には、映像を見た体験もあるし、語り部の語りを聴いた体験もある。いずれも、れっきとした体験。こうして話し合っている体験もある。だから、今日授業内にVTRを見て、僕の震災当時の生活の話を聴いて、そして、いま震災について語り合ってる。みんなは『語る体験』を既に多く持ってる」とお応えしました。



 忘れてはいけません、僕らにはとってもスゴい力が全員に宿っています。「想像する力」と「共感する力」です。直接体験をしたことはなくても、想像して、追体験できる。この偉大なる力こそ、社会連帯を、市民活動を可能せしめている基盤です。その力を活かして、様々なカタチになるにせよ「体験のバトン」を私たちが止めてしまわないことが肝要です。



 今の学生さんは震災当時、幼児。多くの場合、記憶も曖昧です、これからの若者は、神戸の若者であっても、被災体験を持たない人ばかりです。被災体験に代わる「体験」として、どのようなものが良いのか。そのことを見いだすことが、今の僕らに課せられていることなのでしょう。



 まずは、僕らも「震災」を覚え、そこでどのようなことを思い、感じ、学んだのかを後輩に語ることからはじめましょう。語ることの意味は小さくないと思っています。