結婚を決意するということ

 秋風が吹き出す中、今秋も結婚式やその二次会が続きます。そうした席上でスピーチをすることが時折ありますが、私が結婚をする二人にいつもお話ししていることは、「お互いをわかった気になるな」ということです。



 付き合う中で、「わかり合った」からこそ結婚しているわけですが、しかし、人間は日々変わります。人と出会い、何かをなし、本を読み、思考する、そうした中で、「わたし」は常に新たにされています。ですから、昨日の「わたし」は今日の「わたし」とは一部分であれ、別人です。「結婚をしよう!」と決意した相手は、もう隣には「いない」のです。



 しかし、人間関係の中で年数を重ねていくと、この変化に鈍感になりがちです。また軽んじてしまいがちです。「こいつはこういうやつだ」と昔の「あなた」の情報をもとに、コミュニケーションをとることは、円滑な会話を成り立たせ、一見エコノミーに見えます。ですが、「わかっている」という勘違いされることによって生じてしまうストレスや不満が蓄積していく中で、喧嘩が生じてしまうものです。



 だからこそ、常に「私たちはわかり合えないのだ」ということを相互了解し、絶えず新たにされる「わたし」を丁寧に交わらせ続けるコミュニケーションが求められるのです。日々の気づきや学び、変化を語り、そして、他者のそれを聴き、受け容れていく、この日々の積み重ねの先に、持続的に良好な人間関係が生まれるのではないでしょうか。



 そのように考えると、結婚を決意するということは、「わかり合った」結果としてなされるものとしてではなく、これからも「わかり合い続けたい」という意志の表明として理解されるものでしょう。



 この人の変化を追い続けたい、「わたし」の変化を伝え続けたい。そのような気持ちになることは、結婚の時のみではありません。親友となる、ということもそういうことでしょう。結婚する/しないに関わらず、「関係を持ち続けたい」と願う相手が多い人生でありたい、そう思います。