青春的な老成

 僕が長らく言われ続けていること、絶対に初対面の方と話題になること、そして、困った時の「オチ」になること、と言えば、僕が老けていることですね。



 15歳の時は20歳に間違われ、18歳の時には25歳に間違われ、ここ数年は30歳オーバーに間違われています(実際は現在27歳)。川中大輔(27)、こう書くと自分でも違和感がなくもないですね(笑)



 落ち着いているとか、(生まれる前の)昔の話題をよく知っている上、まるで自分ごとのように話すとか、話している内容が小難しくて若々しくないとか、顔そのものがオッサンだとか、まぁ色々と言われます。



 高校時代に通っていた教会の方は「老成している」と僕のことを表現してくださいました。当時は「老成」という言葉の意味が分かりませんでしたが、今になってみると、かなり水増しして表現いただいていたことに気づきます。



 そんなわけで老けている僕ですが(汗)、最近、息抜きに読んだ本で「老成」について書かれた、おもしろいくだりがありました。



 人間が「成長する」ということは「老成する」ことだと思いますが、その場合、極端に言うと二つの形があると思います。ぎこちない表現ですが、「表層的に老成する」か、「青春的に老成する」か、そのどちらかです。姜尚中『悩む力』集英社新書、2008年、p.94)



 そして、この表層的な老成について、以下のような説明があります。



 一見老成しているようにも見えます。が、本物の老成ではなく、底の浅い老成、すなわち気分的に老成しているだけだと思います。

 彼らはありとあらゆる人間関係においてあっさりしていて、誰に対しても深入りせずに上手くしのいでいくやり方を通しています。友人関係においてもそうでしょうし、恋愛やセックスにおいてもそうかもしれません。
(前掲書、p.89)



 僕の老成は表層的か青春的か、どちらでしょうか。完全にではなくとも、青春的でありたい、そう思います。以前、高校時代からの友人に「内面はいい意味で『青い』奴」だと評されたことがあります。この評は本当に嬉しいものでした。無鉄砲にNPOで生きているのも、その「青さ」が源泉とも思っています。



 若さと青さは一緒くたに取り扱われがちですが、きっと違うものなのでしょう。親和性は高いが、不可分の関係というわけではない。そんなことに気づき、老けているとさんざん言われている僕は勇気をいただいたのでした。