新たな「言葉」と出会うとき

 大学で授業をしていて、ふと思ったのですが、伸びる学生さんと伸びない学生さんの違いの一つとして、新たな「言葉」との向き合い方に見て取れそうです。



 アカデミックなお話を聞いていると、時に自分が聞いたことのない理論や概念が混じってくることがあるでしょう。授業の場面では、丁寧に身近な事例などを交えたり、分かり易く解説して、そういう新たに出会うであろう言葉を理解してもらおうと、教員は苦心しています。



 しかし、授業の場面のみに限らず、少し気になったのが、そういう新たな(難しい)言葉も混ざった話をしていると、一回聞いて理解できない(あるいは、理解するのが大変そうな)言葉をすぐに「理解不能」とシャットアウトしてしまい、自分が理解可能な言葉だけを選って話を理解しようとする方が少なからずいるということです。



 新たな言葉を得るということは、新たな社会の捉え方を得るということです。難しい言葉だから価値があるとは言いませんが、アカデミックに洗練された言葉には、それだけの鋭さや奥深さが胚胎しているものです。



 簡単に理解しきれない言葉と新たに出会った時に、「これはなんだろう?」と関心をもち、理解していこうとするか、すぐに「これはムリ!」と放棄してしまうか。大きな違いです。昨今、学力問題が叫ばれ続けていますが、新たな言葉と出会った時に粘り強く理解をしようとする姿勢(とその方法の)習得にも関心を向けるべきではないかと思います。



 折しも、今週の教育社会学の講義では「社会問題の構築」をテーマとして取り上げ、「現実は社会的に構成される。現実は言語によって構成される。言語は物語によって組織化される。」といったテーゼをお話ししたところです。言葉と真摯に向き合い続けたいものです。