修復的正義の実践ガイド

rj.jpgもし私たちが今日の司法制度を推進している次の三つの質問にとらわれ続けるのなら、正義はもたらすことができない、どの法律が犯されたか?誰が犯したのか?犯したものへの懲罰は何か?

 真の正義は代わりに次の質問を必要とする。誰が傷つき、被害をこうむったのか?その人たちのニーズは何か?誰がどのように責任を負う義務があるのか?他に誰がこの状況からの影響を受けたのか?この問題の解決に関係者が参加するための手続きは何か?

 修復的正儀は私たちの物を見るレンズの交換を求めるだけでなく、質問を変えることを要求する


(ハワード・ゼア『責任と癒し〜修復的正義の実践ガイド〜森田ゆり訳、築地書館、2008年、pp.84-85)



 つい最近、ゼアのこの本を読了しました。過去に「修復的司法」と訳されてきたRestorative Justiceという概念ですが、その頃から「なんやろ?」と関心を持って、ゼアの『修復的司法とは何か』など何冊か専門書を買っていたものの、「まっ司法関係の本だし」と優先順位あがらず、積読状態になっていました。



 で、先月この小さな本(little book)を見つけ、(1)まず「修復的正義」となっている、(2)そしてすぐに読めそうな量、(3)ぱらぱらっと立ち読みしたら、教育や福祉の現場でも使われていると書いてある、といったことから、読むことといたしました。



 様々な犯罪を念頭に置きつつ、様々な場での応用が考えられる、柔軟性の高い概念だなぁと思いながら、読み進めました。



 加害者と被害者(とその周辺)が「安心の空間」で対話をしながら、加害者の自らの罪への自覚化を進め、その責任のとりかたを考えさせ、責任の遂行にあたって、家族や「その出来事を心配しているコミュニティ」(p.37)がサポートするように関係性を構築していくという過程(本当はもっとふくらみのある取り組みですが詳細は同書をお読みください)は、従来の応報的なスタンス(「苦痛を与えることが苦痛を晴らす」(p.79))とは全く異なります。



 例えば、いじめをした子に怒りの感情で頭ごなしに非難したり、ましてや登校停止の処分を下したりするのでは、何の解決にもなりません。「いじめっ子/いじめられっ子」という関係が流動的に入れ替わり可能な状態になっている現在、いじめへの対応は特定の個人にアプローチするものではなく、コミュニティにアプローチすべきでしょう。修復的正義の犯罪への捉え方は、このことを気づかせてくれます。 



犯罪はコミュニティが負った傷であり、関係性のつながりが破られたことである。犯罪とはダメージを受けた関係性を意味する。実際、ダメージを負った関係性は犯罪の原因であり結果である。多くの文化が一人への害はすべての人への害ということわざを持っている。犯罪のような害はクモの巣全体を、引き裂く。また不正はしばしばバランスが揺らいでいることの兆候である。

 相互につながり合った関係性とは、互いの義務と責任を意味している。驚くに足ることではないが、不正や悪事に対するこの見解は、修正すること、または正すことの重要性を強調する
」(前掲書p.27)



 ここで断っておかねばならないのは、修復的正義がすべてであり、万能だということではない、ということです。しかし、これまでの方法でうまくいかなかったものが、この方法でうまくいく、そういうことも多いのではないかと思っています。関係性を断ち切る応報ではなく、何らかの関係性を修復していくことを志向するのは、容易なことではありませんが、それが私たちには可能であり、そのことで生まれる果実は非常に意味深いものだということは、この本が指し示してくれます。



修復的正義は互いに学び合い、サポートし合うための対話への招待である。それは私たちがもともと互いにつながり合った縁のある存在であることを思い出させてくれる。」(前掲書p.85)