調査されるという迷惑

chousa-meiwaku.jpg 「調査というものは地元のためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い。」(宮本常一「調査地被害−される側のさまざまな迷惑」、宮本常一・安溪遊地『調査されるという迷惑』みずのわ出版、2008年、p.34)



 先月、同志社大学大学院のインターンシップに関する授業にゲストでお招きいただいた際、同授業のご担当をされていた山口先生に「おもろい本あるよ」とお勧めいただいたのがこの本。



 現在、受託事業の関係で神戸市役所でお仕事をしていると、たびたび「あのぉ調査研究をしてるんですけどぉ…」と院生・学生さんがふらっとたずねて来られ、お相手をすることがあります。また、前職でも多くのヒアリング調査に協力したり、学生のフィールドワークの風景を観察したりすることが数回ありました。その時のことを思い出しつつ、「あぁ、そうそう!」とうなづきながら、一気に読み切りました。



 大学の外に出て、現場で学ぼう!ということは、いいことだと思いますし、自分自身、そのようにして学んできたこともあります。しかし、なかには「とにかく現場へ行け」みたいな感じで教育放棄しているのではないかと疑ってしまうような、調査研究のお相手をする時があります。



 アポなしで、突然たずねてくることもそうですし、リサーチクエスチョンも曖昧で、先行研究やウェブ等の既存の発信情報をレビューせずに来られることもしばしば(このレビューなし、というのが本当に増えている)。その上で「どのようなものでも結構です」と資料や証言等をかき集めていこうとするのですから驚かされます。



 同書では、民族学で行われるフィールドワークでの調査被害の実態を、被害にあわれた土地の方々の生々しい証言とともに示しています。史料等を持ち出してしまう、証言が誤用される、話者の意図を無視して都合の良いように編集されてしまう、許可なく「買い手は行けないこと」を書いてしまい紛争の種を蒔いてしまう、結果が報告されない、「しきたり」を守らないという調査者の行動で「しきたり」の価値を下げてしまうなど、実に多様な被害の結果を知ることになります。



 フィールドワークには、情報を「奪う」という行為が明に暗に含まれます。だからこそ、「略奪」にならないように「贈与」してもらえる関係性をつくることが求められますし、「奪う」ことの「お返し」をきちんとすることが求められます。フィールドに対する敬意をもつこともまた、当然のこととして求められます。しかし、そういうことを意識されている方は実は少なからずおられます。



 …と、ここまで書いて、自らも「される側」のみならず「する側」に立つことがあり、「自分もやってしまった(しまう)ことあるわぁ」と胸を痛めながら、読んだ箇所も少なからずあります。思い返せば、大学院に入って間もない頃、ある授業で『社会学評論』212号(特集「社会調査」、2003年)の論文を読まさせられ、調査被害についてディスカッションをしました。常にその「加害性」を自覚した上で、現場に何らかの意味をもたらせるような良質な調査をせよ、ということであったかと思います。



 同書の筆者である安溪遊地氏は、決して安全地帯から「調査」を批判しているのではありません。調査という行為に内在している加害性を強く自覚され、その加害性との付き合い方に葛藤を抱えながら研究者としての歩みを進めてこられていることがしっかり伝わってきます。その真摯さには敬服の念を抱かざるを得ません。



 「『調査研究』そのものの価値がどの程度あるのか。つまり、われわれの研究活動は、『民族』の生活以上の価値をもちうるのか?−地域ほろんで学問栄える。そんなことでよいのかというこの問いは、私が西表島で永年言われ続けてきたことである。」(安溪遊地「『研究成果の還元』はどこまで可能か」、前掲書、p.109)



 「フィールドに出る前に読んでおく本」という副題がついている本ですが、まさにその通りの好著です。フィールドと強いコミットをしなくても調査が終わってしまい、調査被害と向き合う局面が少ないような学問を専攻されている院生・学生さんにこそ、読んでいただきたいと思います。