「あたりまえ」をくつがえす授業

 「どんな学問も次の二つのことをめざさなければならない。すなわち、明快であること、そして、当たり前でないこと、である。

 真の知識は伝達できるものでなければならない。つまり、ひとにわかるようにいい表すことができなければならない。しかも、何かいうに値すること、これまで知られていなかったことで、それを知れば知る前とは何かが違ってくるようなことがそこにふくまれていなければならない。
」(ランドル・コリンズ『脱常識の社会学−社会の読み方入門−』井上俊・磯部卓三訳、岩波書店、1992年、p.酈)



 新学期が本格スタートし、僕も担当科目の授業が始まりました。前年度の授業よりも、よりよい授業を!と思い、担当二年目以上の科目については資料の見直しと改訂を進めています。その一環で、大阪樟蔭女子大学で担当している「教育社会学」の第2回講義内容(「社会学の思考様式」と「社会常識はどのように身につくか?」)の参考文献に改めて目を通していて、目に留まったのが上の引用。



 「当たり前」を成立させている(われわれに常識だと思わせ、身体化させている)構造を明らかとし、脱自明化するのは、社会学の醍醐味の一つです。それは、単なる暴露趣味的な面白さではありません。



 われわれが「当たり前」と言う時、そこから「はみ出る」人や、無理して合わせている人が必ず存在しています。中にはその「はみ出でること」や「合わせること」が、「生きづらさ」と直結することもあるでしょう。故に「当たり前」の成立構造を明らかにすることは、そうした「見えていなかった」抑圧を明らかにすることにもつながる可能性を持っています。その可能性は、過去、ジェンダーセクシュアリティ、多文化共生といった分野で、社会的な意味を発揮してきました。



 この種のチカラやおもしろさを、ぜひとも学生の皆さんにも味わってほしい、そう思っています。そのためにも、コリンズ先生が仰られているように、「わかりやすく」ないといけないですね。



 この学問のあり方を提起している文章は、授業のあり方にもつながります。自戒のための言葉として受けとめ、記憶し続けるようにしたいと思います。



 来週の授業では、学校のクラブ活動や校則などの「あたりまえ」を題材に話をしてみようかなと考えています。授業準備は骨が折れますが、楽しいは楽しい骨折りです。