グルーピングから漏れるカード

 今日行われた、ある打合せの席上で「KJ法でグルーピングしていくときにどこのグループにも属さずに漏れてしまうカードをどう扱うか?」という話が出ました。



 僕自身もなじみ深く、会議やグループワークの中で用いられるKJ法ですが、一般的には「効率よく意見を可視化し、束ねられる」というところにメリットが見いだされています。しかし、ぱっと観て、どういう主立った意見があるのかが分かるKJ法というツールでは、そのビジュアライズの問題もあって、「グルーピングから漏れたカード」は軽視(時には無視)されてしまう傾向があります。



 「これまで」、そして現在進行形の社会の主流は、グループ化された意見(特に数が大きいもの)を中心に次の何らかのアクションをプランニングしていく流れでありますが、今日の打合せでは、寧ろ「グルーピングから漏れたカード」にこそしっかりと向き合い、既存の枠組みの中では未だ価値を見いだされていないものを、しっかりとマジョリティに発信していくことが「これから」は重要ではないのか、といった議論になりました



 例えば、被災者支援といった時を想像してもらえれば分かりやすいかもしれません。被災者支援のマジョリティのニーズに注目をして、支援の制度化がされていったり、マニュアル化されていけば、発災時にはその制度/マニュアルの遂行でもって「やるべきことはやった」ということになります。しかし、そういった制度/マニュアルから漏れるものの中には、本当の社会的な弱者の被災支援ニーズが存在してしまいます。



 似田貝先生は、同氏編『ボランティアが社会を変える』(関西看護出版、2006年)に所収されている論文「『一人の人として』をめざす支援の実践知」において、これからの被災者支援の思想の基本として、最後の一人まで、一人ひとりを大切にするという観点から、「生の固有性」を示されています。グルーピングから漏れるカードと大切に向き合うということは、「固有性」へのこだわり、とも言えるでしょう。



 会議におけるファシリテーションは弱者のためのもの、といつも肝に銘じています。声を聴いてもらえない人のため、声を発したくても発せない人のため…。まだまだ未熟なところもあって、いつも完全に実践できているわけではありませんが、「グルーピングから漏れたカード」を新たな地平を切り拓くヒントとして大切にすることをちゃんとせなあかんなと、改めて今日の打合せでは考えさせられました。