文字を読む/社会を読む

 今日の朝日新聞で『帝国以後−アメリカ・システムの崩壊』(藤原書店、2003年)の著作で知られる人類学者・歴史学者 エマニュエル・トッド氏のインタビュー記事が出ており、興味深く読みました。トッド氏は識字化こそが近代化/民主化の鍵をにぎるものだとして、次のように述べています。



 「読み書きは単なる技術ではない。人間の精神形成に深くかかわる。ひとりで本を読めれば内省が可能になる。それは精神の構造を変える。近代的な人間の登場だ。彼らは社会の権威関係を揺さぶる。一部の者だけが権威を独占するのが難しくなり、経済的発展や政治の民主化が促される。



 識字率が向上していく過程について触れながら、「読み書きの習得とともに、人々はあらゆる実存的な疑問に向き合い苦しみ一種の発熱状態に陥る。過渡期の危機だ。ただそのあと社会は平静を取り戻す。」とも続けています。



 識字学習は、発展途上国において非常に重要な意味をもつものとして、これまで取り組まれてきたものですが、その背景には上記のトッド氏の論評/分析と通じる認識があったからに他なりません。



 「ワークショップ」の思想の基盤の一つには、パウロフレイレの教育思想がありますが、フレイレ氏が第三世界においてワークショップ形式での識字教育を通じて、被抑圧者のエンパワーメントを行い、社会変革を追求したことは、ワークショップ業界ではよく知られていることです。



 そのフレイレ氏は来日した際、「第三世界の民衆は、(教育の機会が奪われ続けているために)字を読むことはできない人が多いが、彼(女)らは社会を読める。先進国の皆さん、あなたがたのほとんどは字は読めるが、しかし、社会は読めますか?自分たちの社会で、また、世界で何が起こっているのか、何故そうなっているのか、読めますか?」というメッセージを残したとされています(池住義憲「パウロフレイレの教育思想と実践から学ぶ」、部落解放・人権研究所『人権の学びを創る』解放出版社、2001年、pp.15-16)。



 4月から始まる新しい学習指導要領では、言語(表現)力へ重点がおかれた内容になっていますが、80年代のフレイレの指摘を改めて受け止めてみると、ついつい「読み書きの技術」として「ことば/もじ」を矮小化して捉えていないかと考えさせられます。



 社会の何を読むために「読み書き」の力をつけるのか。そのことを改めて考えるべきでしょうし、その目的を明確にしつつ、文字を読むという点においても、どのような書物を読むべきなのかを明確にしていくことが、求められているような気がします。



 トッド氏が言うような意味での「読み書き」の力は、実は発展途上国よりも先進国、こと社会への「あきらめ」感が漂う日本においてこそ貧困化しているように思います。精神の構造を鍛えるような書物との格闘。ぜひ学生のみなさんにはこれをお願いしたいものですし、私を含む、若い社会人もまた継続していかねばならぬことを肝に銘じたいものです。



 春が訪れました。さぁ、どんな本を新しい年度に読み始めますか?