成長における喪失

 ある雨の日、どうすれば雨の日でも楽しんで歩けるのか、ちょっと考えてみました。幼かった頃は長靴でぴちゃぴちゃするだけで、楽しかった訳ですが、大人となった(!?)今は雨の楽しみ方が分からなくなっています。「雨かぁ、はぁ〜あ」とため息をついて終わり。少し寂しいことです。



 そんなことを思っていて、「成長をする」ということって、どういうことなんだろう?って、考えさせられました。成長は、何かが伸びる反面、何かがなくなることと言えます。この得るもの/失うもの、それぞれの「何か」は人によって違い、そこに成長の差が見て取れるんでしょうね。



 成長体験は喪失体験と共にある、よく考えれば、至極当たり前のことですが、私たちは獲得体験にばかり光をあて、「何が喪失されているのか?」ということには余り見向きしてこなかったのではないでしょうか。



 さて唐突ですが、聖書にはこんな下りがあります。「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」(コリント? 13:11)。



 喪失体験の意味から考えて、ここで疑問になるのが「幼子のこと」を全く棄てるということがここまで肯定されることなのか、ということです。幼子故の「幼稚性」は喪失されるものでしょうが、幼子に宿されている純粋性や鋭敏な感性、それに関連する旺盛な好奇心は、継続されるものとしても良いように思います。



 谷川俊太郎さんは、「大人になる」ということを次のように表現されています。



 自分のうちにひそんでいる子どもを怖れずに自覚して、いつでもそこからエネルギーを汲み取れるようになれば大人になるんじゃないかな。最低限の大人のルールは守らなきゃいけないけど、ときにそのルールからはずれることができるのも、大人の証拠。谷川俊太郎谷川俊太郎質問箱』ほぼ日ブックス、2007年)



 別のところでも谷川さんは「人生は年輪のよう。<子ども性>が誰の中にも潜んでいる」(「朝日新聞」2007年2月17日)と言われています。幼稚さではなく「子ども性」という言葉が言い得て妙だと私には感じます。



 立ち止まって、自分は何か<子ども性>の大切なところを喪失(封印)していないか、と自問してみると、思いあたることが幾つか思い当たります。学部生のころ、ゼミの友人と「誠実な生きかた」をしたいものだなどと、飲みながら語らい合ったことがあります。自分の中の「子ども」に対しても「誠実」でありたい、そのように思います。



 ある雨の日、雨を楽しめない自分を手がかりに、こんなことを考えてみました。これもまた、雨の日の楽しみ方なのかもしれません。



 ちなみに、話はがらっと変わりますが、シチズンシップ共育企画のトップページで最近のお仕事の報告をアップしています。そちらもあわせてご覧下さい!