空気を読んでる内に「窒息」

 ここまで「KY(空気読めない)」という若者言葉が定着するとは思ってもみませんでした。この前、某女子大で話をきいたら「SKY」で「スーパー空気読めない」という意味になる発展系まであるそう。



 空気を読む、ということは、決して悪いことではありません。しかし、空気を読めないということが、そこまで忌避されるということには、いささかの疑問が生じます。



 あまりにも「KY」を意識しすぎるとこんなことが起こるでしょう。例えば、友だちグループで盛り上がって「今日はカラオケに行こー」となった時に、自分は「あんまし行きたくないなぁ」と思っても、参加を断ることが「KY」につながり、それが進展すればいじめや仲間はずれにつながるので、自分の気持ちを我慢して、空気に「あわせて」参加する、といったようなことです。



 どうやら、これは僕だけの空想ではないようです。「教室は たとえて言えば 地雷原」とは中学生川柳からの引用。これだけで一般化することはあまりにも大きな飛躍ですが、若者は異常なまでに空気に気を遣って日々生きているのかもしれません。



 最近、高校生や大学生と一緒にワークショップをしていて思うことが、本当に自分の「いまここ」の気持ちや意見、関心を他者に伝える「表現」(not表出)が貧困になってきているということです。KYにならないように、「自分」をおさえて、探り合いをしながら、おそるおそるのコミュニケーションになっているように見えます。友人や恋人といった親密な関係においてですら(いや、より一層と言うべきか)、そんな感じです。



 「KY」に対し気遣いするコミュニケーションも結構ですが、そればかりでは気疲れもしてしまいますし、関係が深いところで構築されないでしょう。気持ちを伝え合い、意見を戦わせて、摩擦もへながら、相互浸透していくコミュニケーションが、もっと増えてもよいように私は思っています。



 「KY」という言葉が社会でここまで持てはやされる、この「空気」に大きな違和感を抱いてしまいます。