まちなみの保存は必要か?

okinawasora.jpg まちなみ保存や景観保全など、まちをどう遺していくのかということが、まちづくりの中でよく言われます。今春まで暮らしていた京都でも新しい景観条例が施行され、これまでのまちなみを保存しつつ、「京都らしい」まちなみをつくっていく取組みがスタートしました。



 これまで自分もこうした取組みは必要だなと「感覚的に」思っていました。ロンドンやパリで受けた「景観の衝撃」は今も鮮明に心に残っています。また各地の伝建地区などを見て回った時に、長い歴史の中で育まれてきた景観はその土地の文化や風習や自然と共生する知恵が織り込まれているものであったりもすることを知り、まちなみの保存は必要だろうなと思っていました、否、今も思っています。



 しかし、ふとしたことをキッカケに「なぜまちなみを保存しないといけないのか?」という問いを持つようにもなりました。私の中にあるアマノジャク的な心がくすぶられたのです。まちなみ保存を熱心に唱える人ばかりの中に身を置いた時、「いやちょっと待てよ」と思い始めたわけです。



 まちなみの保存を唱える世代はどの世代かを考えた時、上記の文化的側面がまちなみ保存の言説の根っこにあるのではなく、自分が生まれ育ったまちの景観がなくなることに対して感傷的な部分が根っこにあるのではないかなと。まちなみ保存は将来世代が望んでいるのかどうか、少し考えてみると、言い切れないなと。



 また、まちなみが変わっていくこと自体は、文化/社会の状況変化の中では極めて自然なことで、タイムスパンはあるにせよ「特定の時期」のまちなみを特権化することは、本当に良いことでしょうか。地域によっては、昭和の風景を遺そうとしていますが、おそらく当時は「なんという風景だ、歴史的な景観がこわされた」と言われたものでしょう。そう考えると、「記録する」のではなく「保存/保全する」ことまで至る必要性が何かは考えどころではないでしょうか。



 こうした「問い」を発することに見識や教養ががないのではないかと思われるかもしれませんが、「敢えて」逆の立場から問い詰めることは、物事を深く捉えていく上で大切だと考えています。



 ここまでくると、川中はまちなみ保存に懐疑的なのではないか、と思われるかもしれませんが、そうではありません。もう少し筆を進めてみましょう。



 まちなみの保存が行なわれずに、自然のなりゆきに任せて、放置すると何が起こるかといえば、いま既に形として現れていますが、景観の均一化に他なりません。全国どこに行っても似ている再開発地区の風景は象徴的でしょう。今、私が住んでいる尼崎も再開発で駅前がどんどん変わっていっていますが、その風景は「いかにも再開発地区」なわけです。



 土地に根ざした文化/風習/歴史/知恵とは関係なく、近代の道具的な合理主義や、あるいはポストモダニズムスーパーフラットに基づく開発では、まちの顔は似てくるのは至極当然です。



 この結果起こるのは、「どこに行っても一緒だから」、まちへの愛着もわかないし、どんどん住み良い場を求めて移動する根無し草の人々の増加です。私もそのひとりでしょう。こうした「流動化」の高まりは近代の特徴でもあります。コミュニティからの解放であり、自由の獲得でもあります。



 宮台真司がよく言っていることですが、この「流動化する近代社会」は「見知らぬ人」への全体的な信頼を人々が持っているということが前提にできあがっています。まちなみ保存の放棄は、流動化に拍車をかけ、匿名性は向上していくことでしょう。それは多様性が高まることにもつながります。「見知らぬ人」は想像以上に幅が広くなっていきます。



 こうした展開では、流動性/多様性の高まりに応え得る「信頼する力」が私たちに求められます。しかし、コミュニティの崩壊が大きな問題として叫ばれ、匿名化した隣人に対しては「隣の人は何する人ぞ」という「疑い」の目でもって見る風潮が根強いのが、現代日本社会の大勢でしょう。



 多様性の高まった「見知らぬ人」への全体的な信頼の低さは、安全安心のまちづくりの活動の一環で取り組まれる「草の根の監視」が多くの市民によってなされていることに顕著ですが、現代日本社会では流動性に耐え得る心性が多くの市民の中でまだ形成されていないのでしょう。



 宮台真司が「社会学からの全体性の脱落に抗して、いま何が必要なのか」という論文(宮台真司・鈴木弘輝編『21世紀の現実』ミネルヴァ書房、2004年、pp.233-255)の中で指摘しているように、こうした流動性/多様性の高まった中では、「多様性を維持しながら流動性を低下させる」政策パッケージか、「流動性を維持しながら多様性を低下させる」政策パッケージかの選択が求められます。



 これは非常に大きな社会デザインの問いです。どちらを選択すべきなのか、そこには多くの議論が必要でしょうが、インクルーシブ(包摂的)な社会デザインをするのであれば、前者の政策パッケージを選ぶことになるでしょう。後者では社会的排除が進んでいき、分断された社会を生きることになるでしょう。果たしてそれは多くの市民が幸福に生きられる社会なのかどうか、疑問です。



 では、多様性を維持しつつ、流動性を低下させるための政策とは具体的に何か?となりますが、そのひとつに、まちなみ保存はつながるのではないか、というのが、自分なりの帰着です。



 流動性の低下を前近代社会的に「移動の規制」というかたちで実現することは、非現実的なわけで、「移動のモチベーション」をどのように下げるのか、「いま住んでいる場所」へ留まるモチベーションをどのようにあげるのかということを考えることになります。



 その際、土地土地の顔の違いが見える、代替可能性が低いまちをつくり、固有性を感じられるからこそ沸く愛着を導きだすことが政策のひとつでしょう。だから、その土地の文化/風習/歴史/知恵に根ざしたまちなみを保存することが意味を持っていくるのではないか。そう思うわけです。



 故に、ここまでは「まちなみ」という言葉について立ち入っていませんが、どのような「まちなみ」を保存するのかを、深く考え、議論していくことが大事になってくるでしょう。新しい問いが立ちましたが、ここまでで今のところは終わりましょう。



 まだまだ考え始めたことなだけに、文章そのものもロジックも相当に粗いものですが、思考を書き留めていくべく、ブログに投稿しておきました。またディスカッションできる機会があればいいなと思います。



 まちづくりについて考えることは、面白いことですね。