祈るという行動
ある集まりでの話。「祈っていても平和はこない、平和は行動で実現させるものだ。」と発言された方がおられたと聞いたことがあります。
これまた別の集まりでの話。「祈るということは、主体性を神仏に預けてしまう行為だ。」とのご発言を聞いたことがあります。
しかし、僕は少し違う考えを持っています。
祈るということは一つの行動だし、祈る人間の主体を確立していくプロセスだと思います。神さまから「使命」や「言葉」を与えられるべく心をかたむけるのが祈るという行為です。その中で、自己との対話もあるでしょう。自己をとりまく世界との対話もあるでしょう。複数の自己がぶつかることもあるでしょう。そうしたプロセスを経ることに意味があるように思います。
8月は特に戦争に思いを馳せる時期ですが、この時に「平和への祈り」の時を持つことは、ささやかであったとしても、確かな「平和への一歩」であると信じています。
主は国々の争いをさばき、
多くの人の民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、
もはや戦うことを学ばない。
(イザヤ2:4)
私たち一人ひとりが持てるタレントを活かして、平和のためにどのような行動をとるべきか、そのことを知るためにも、平和への祈りの時、ぜひとも持ちたいものです。
新約聖書にはこうあります。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)