最近読んだ3冊から

 最近読んだ3冊の本の中から一節か二節ずつ、引用してみましょう。最初にあげるのは、久々に読んだハーバーマスの論文から。



 先に「統合的な紐帯」がないと嘆かれていたが、そうした「統合的紐帯」はまさにデモクラシーのプロセスそのものなのである。つまり、共同でのみ実行可能なコミュニケーション的実践なのだ。(ユルゲン・ハーバーマス「民主主義的法治国家における政治以前の基盤」、フロリアン・シュラー編『ポスト世俗化時代の哲学と宗教岩波書店、2007年、p.10)



 信仰を持った市民たちが公共の問題に対して彼らの宗教的な言語で議論を提供する権利を否定してはならないのである。それどころか、リベラルな文化は、宗教的な言語でなされた重要な議論を公共の誰でも分かる言語に翻訳する努力に世俗化された市民たちが参加することを、期待していいのである。(前掲書、p.24)



 「宗教」というもののもっているポテンシャルを一定認めた上で、そのポテンシャルを最大限に発揮させるためには、宗教を特別扱いするのではなく、きちんとデモクラシーのプロセスにのせることが大事なのだ。そのような主張のように読めました。こうした投げかけは公共圏における宗教的発話の持つ社会的意味を定置していくものでしょう。久々に公共圏論について思いを馳せた一冊でした。



 次は、ベ平連が行なった脱走米兵の支援活動に関するトークセッションの記録をまとめた冊子から、ゲストスピーカーの吉岡さんの言葉。



 漠然と考えるのは、気分がアウトドアじゃないということですね。自分の部屋と、学校や会社と、そのくらいにしか意識が向いていない。途中に路上があるけれど、まったくつまらない。いまの路上は、とがった表現の場になっていないから、刺激を受けないですね。僕は路上の思考というものがあるような気がする。(吉岡忍・鶴見俊輔脱走の話−ベトナム戦争といま』SURE、2007年、p.60)



 ストリートがカウンターカルチャーの表象空間となっているか、という問いは重いものです。「気分がアウトドアじゃない」という言葉は印象的なのですが、僕の感想では、じゃあ単純に「インドア」かと言えば、そうではないような気もします。路上にも全くの無関心ではなく、目配りはしているように思えます。しかし、その「目配り」が次のステップにあがるために、新たな関心を惹起し、強く誘うような、そういう路上からのドキッとする問いかけがないのでしょうね。



 最後は、「ドラッカーの著書は一年に一冊は読まなあかんわ。」と再認識させられたドラッカーの著書から。



 愛国心とは、国のために喜んで「死ぬ」意志である。(略)市民性とは、国のために進んで貢献しようとする意志である。国のために「生きる」意志である。「ポスト資本主義社会」においては、この市民性の回復こそ、枢要なニーズとなる。(P.F.ドラッカーポスト資本主義社会−21世紀の組織と人間はどう変わるか』1993年、p.286)



 昨年、『断絶の時代』を読み(このブログ記事)、社会の動きをこうも見事に捉えられるものかと感嘆せしめられましたが、この『ポスト資本主義社会』は、その姉妹編に位置づけられそうな一冊。「やはりそうでしょ」と念を押されているような感じになりつつ、「断絶の時代」に何をすべきかを提起してくれています。上記文章、「国のため」となっているくだりは、「社会のため」と換えて読むと良いかと思います。原文をあたっていませんが、文脈から考えれば、そんな気がします。