怒りが足りない

 今日は朝から大阪で仕事の打合せ。ある組織に提案する研修のフレームづくりについて、ああだこうだと話し合い、うまくまとまりました。よかった、よかった。



 で、打合せ後はランチをとりながら、おしゃべりに花を咲かせたのですが、そこで話題にあがったのが、市民活動業界における、僕らの年代と上の年代との間の違いについて。「違い」を語ったのは、いわゆる「差異化」のためではなく、むしろ上の世代から何を学ぶべきか?という視点でです。



 で、あれこれ具体名を挙げながら、話していて、市民活動業界の僕らの世代において、足りていないのが2つあるのではないかというところに落ち着きました。



 一つは、大きな社会観。どういう社会をつくりたいのか?というビジョンです。この際、活動分野の将来、ではなく、「社会全体」で想像できるかどうかが、大事かなと。自分たちの活動が、そうした社会のグランドデザインの中で、どこにどのように位置づけられるのか、そこまで考えてこそだからです。



 もう一つは、社会に対する怒り。現状の社会に対する強い問題意識といってもいいでしょう。上記の目指す社会像が曖昧だから怒りも曖昧になったり、全体性が低いため怒りが小さくなったりしているとも言えるでしょう。



 最近は社会デザインのような青臭い議論ははやらないのかもしれませんが、「cool head」に磨きをかけるだけではなく「warm heart」もまたしっかりと育んでおかないといけないように思えます。そこに「迫力」のもとがあるわけですし。



 そんな話をした帰りに本屋さんで、気になる本を数冊購入。その内、すぐに読み始め、そして読了したものが、NHKスペシャルワーキングプア』取材班編の『ワーキングプア−日本を蝕む病』(ポプラ社、2007年)。



 社会への問題意識の持ち方のような話をしたばかりだったので、同書を読みながら、鈍器でアタマをなぐられたような感じに陥りました。



 最近、消費される社会的起業家という「ストーリー」もそうですが、夢や志をもって働こう!というかけ声が鳴り響く中でキャリア教育は進められています。



 私も大学でキャリアプランニング論という科目を担当し、そうしたキャリア教育の一端を担っているわけですが、そうした「かけ声」の裏側で進行/増幅する若者のワーキングプア問題にもっと深い関心をもたねばと痛感。



 若者が夢を持って生きるためには、若者自身の意識や視点が変わるだけではなく、そのアリーナである社会そのものが、夢を持って働ける(生きれる)ものでないといけないわけで、キャリア教育に関わっている面々は、そろそろこうした「社会の側の課題」にも目を向けていく時期がきつつあるのかなとと思えます。



 今の学生さんの過敏なまでの「不安定へのおそれ」、そして退屈でも終身雇用して欲しいという「安定への憧憬」は、ワーキングプア問題を理屈ではなく肌身で感じ取っているからでしょう。



 想像するに容易なことですが、ワーキングプアは非常に複雑な構造の結果のもの。小さなNPOが今すぐに何をどうこうする、といったことはないでしょうが、どこかに心に留めておくべきようにも思います。



 目先の活動/事業にばかりに目を向けずに、こうした大きな問題意識、社会に対する怒り、目指すべき社会像、これらを鍛えていきたいものです。