体験/記憶は再構成される

 先週金曜日、シチズンシップ共育企画の学生スタッフの希望もあって、一緒に人と防災未来センターに久々に行って参りました。



 防災未来館が2002年にオープンしてすぐに一度訪れた後は、大学コンソーシアム京都在職時に防災研究の調査で訪れたりもしていたのですが、調査時は資料室や会議室のみの訪問でありましたので、展示内容を拝見したのは、実に5年ぶり。



 2002年に訪れた時と、今回とでは全く違う感想を抱きました。僕の被災体験は、もちろん変わるものではありません。ふりかえる時期が異なっても、「一つの体験」ではあります。しかし、面白いもので、今回感じたのは、そうした「一つの体験」の記憶は、ふりかえる時期によって光のあたる部分や深度が変わるのだということです。



 以前に見た時は何とも思わなかった映像やコメントに、心がざわめきを起こすこともあれば、その逆もありました。



 「一つの体験」であっても、そのふりかえる「わたし」という人間は成長し、変わっていくわけで、その捉え方が変わるのは当然と言えば当然です。「一つの体験」が記憶というかたちに変換され、それを思い出すという一連の作業を経る中で、体験は再構成され、新しいストーリーとして生まれかわります。自らの「一つの体験」を自分で追体験し、新たな感情が起こることがあります。



 震災直後、自然への畏敬の念を高め、同時に文明というものの儚さや脆さを痛感したものでした。今もその思いが全く変わることはありませんが、現在の僕には、そうした苦境の中で、地域/年代/民族といった様々な境界を越えて助け合う人間の「絆」というものがワンダフルであることを今は強く強く感じるわけです。



 自分が直接体験したことではないけれども、自らも身を置いたあの状況から想像したら、共感できるということも増えていました。僕の場合、様々な経験や多くの人々との出会いによって、年をとる中で感じる心が大きくなるということももたらしたようです。



 一個人としては、「一つの体験」であっても、多様な記憶を生み出すことになる。だからこそ、過去の一つの捉え方に拘泥することなく、その再構成され続ける記憶の変遷に注視するべきでしょう。



 変遷の中ではフィクションも混じってしまうこともあるでしょう。しかし、そこで脚色されるフィクションというのは、全くの虚構かと言えば、そうではないように思います。そうしたフィクションを付け加える行為に潜んでいるのは、何かしらの自らの内なる欲望とつながっているのではないかなと考えられないでしょうか。



 今日、若い学生スタッフを連れて行くという名目で、人と防災未来センターに足を運びましたが、また5年後、自らのためにも、足を運んでみようかと思います。震災という体験がどのように、「自分の中で」語り継がれていくのか、楽しみです。



 気がつけば、阪神・淡路大震災から12年。当時、小学校にもあがっていない幼稚園児が今は高校生。彼ら/彼女らにとっては、あまりに幼い頃の体験で、イマイチ実感が湧かないようです。だからこそ、語り継ぐことの重要性をひしひしと感じるわけですが、上述の語る側の語りが語り継ぐ中で変化していくことも、大事にしたいなと思います。