10日間の読書

 1月は忙しい。2月はもっと忙しくなる。3月は想像できない。…多くの方がそうなる季節です。こういう季節、「逃避行動」もまた増えるものです。



 というわけで、私もこの10日間、日々の「逃避行動」の積み重ねで以下の本を読みました。最近は死生学がマイブームです。なぜ私がそれに魅かれるのか、少し自分でも気になりますが…。



アルフォンス・デーケン『生と死の教育』(岩波書店、2001年)

アルフォンス・デーケン『死とどう向き合うか』(NHKライブラリー、1996年)

 巷でもよく言われますが、『死とどう向き合うか』は死生学入門の好著でした。「おおやけに認められていない人間関係にある人たちにとっては、その悲嘆プロセスに対する社会的な援助は期待できません。」(p.90)という部分、気になりました。「悲しむこと」ですら平等性が確保されないのは良くないですよね。



鈴木康明『生と死から学ぶ』(北大路書房、1999年)

 デス・エデュケーションは、「教師から子どもへ、大人からこどもへ、一方的に知識や技術を伝達するのではなく、時間と、場所と、さらには<とまど>を共有する」(pp.120-121)ものというのは納得。「<とまどい>の共有」は、もっと多くの場面で可能なはず。デス・エデュケーションはその端緒に良いのかもしれません。



カール・ベッカー編『生と死のケアを考える』(法蔵館、2000年)

 「社会的な老い」と「死」が分離した近代における「死をめぐる共同体」のありようを描いている論文、法医学で「ふつう」の死と「ふつうではない」死とライン引きがされることに違和感を提示している論文など、読み応えがありました。



E・キューブラー・ロスダギーへの手紙』(佼成出版社、1998年)



上田紀行生きる意味』(岩波新書、2005年)

 同氏の『覚醒のネットワーク』は衝撃の一冊でしたが、本書は「やっぱそうだよね」的に確認するものです。「生きる意味を育むコミュニティーの再創造」(p.166)は、どれだけ日常の場面で可能か、特にNPOスタッフに問いが突きつけられています。



長尾文雄『共感 増補版』(関西いのちの電話、2003年)

 僕のお師匠さんのおひとりの著書。読めば読むほどに「共感ってどうするものだろうか?」と考えさせられます。相手との「いまここ」の気持ちに寄り添いながら、私が「ひとりの人間」として、「いまここ」の自分と向きあうことの大事さが心に残りました。