人を憂えるということ

 先月、ファシリテーター業での僕のお師匠さんにあたる方とお茶を飲んでいて、人間関係トレーニングの話で盛り上がったのですが、「やさしさ」ということについて議論になりました。



 通常「友達だから言える」という類のストレートな忠告や助言があるはずですが、逆に仲良しの方がストレートな物言いを妨げる「やさしさ」がある、ということについてです。



 お師匠さんからすると、「驚き」の発見だったようでしたが、僕にはよくわかる話でした。



 「相手のことを思って、敢えて言わない。(関係がぎくしゃくしたらイヤだし)」。ここに存在している「空虚なやさしさ」は、何も目新しいわけではありません。『やさしさの精神病理』でも指摘のされていたことですし、80年代から少しずつ傾向の見られたことでしょう。



 最近、僕の仲の良い後輩のブログで、この種の「やさしさ」についてコメントされていて、ふと、お師匠さんとの議論を思い出しました。というわけで、今日はお師匠さんとの議論を通じて僕が考えたことを以下の通り、まとめてみました。





 優しいの優は、人を憂えるという漢字です。



 他者のことに思いを馳せ、その人のことを「わがこと」のように思える力こそ、本当の意味での「やさしさ」ではないでしょうか。



 だから、真に「やさしい」行動とは、自分が傷ついてでも、他者のために助けの手を差し伸べたり、忠告したりする行為ではないでしょう。それができる優しい人こそ、強い人でしょうし、カッコいい人です。



 他者を気にして媚びへつらう人よりも、自分の意思を貫く人は確かにかっこいい。しかし、そこに「やさしさ」という他者への配慮の気持ちが全くなくなれば、単なるワガママで、自分勝手な輩に成り下がります。



 自分の意思を貫き、実現するためには、他者を巻き込むことが必要です。その時に、無理やり巻き込むのではなく、自然と協力してくれる人が出てくるということが、円滑な実現には重要です。そういう協力してくれる人がどれだけ出てくるのか、そこに人徳の差が出てきます。



 そのためには(…というと功利的に聞こえるでしょうが)、本来的な意味での「やさしさ」で付き合っているという深い関係をどれだけ多く構築できるかかが左右すると思います。



 「情けは人のためならず」です。「他者のため」の優しさは、どこかで自分のために還ってくるものでしょう。



 他者を気にしすぎずに、自分の意思を素直に貫くこと。それは大事なことです。しかし、本来的な意味での「やさしさ」も本当に大事なことでしょう。



 この二つの「大事なこと」をうまく両立させられるようになりたいものです。