人格をもった学校

kglaw.jpg 今日は、高等部の同窓会が発足するということで、学年幹事の一人として幹事会等に出席すべく、母校・関学へ(写真は法科大学院棟)。



 久々に高等部のチャペルで礼拝をまもり、お世話になった先生方にお会いしました。一番の恩師と言っても過言ではない程に「学問的探究心」の面で影響を受けた先生に「おぉ、3Aの川中くんじゃないか。」と声もかけていただけました。クラスまで覚えておいていただことには、心底感激いたしました。高等部で数十年教えられ、既に退職されて8年。もう忘れておられても何ら不思議ではありません。にもかかわらずです。ありがとうございます。



 このような恩師に恵まれた高等部時代に、十二分に「青臭く」無茶をさせてもらった(それを見守っていただけていた)からこそ、社会に向き合う自己を確立でき、「今」がある、そう思っていますが、今日は改めて自分の高校生活を振り返り、その思いを強くしました。



 高校時代、剣道部で汗を流してくたくたになりながらも、日中日夜、「自由と自治」、そして「自律的な主体」という概念について考え、高等部をどう変えていくべきなのか、あれやこれやと熱っぽく語っていたものです。今考えれば、恥ずかしいような語りですが、それを聞き届けて、応答してくださる先生がおられました。



 また、そうした小難しい思索とは関係なく、文化祭などのイベントで「こんなことしたらいいんじゃないか?」という思いつきのような提案を仲間と一緒にした時も、背中を押してくださったり、エールを送ってくださった先生がおられました。



 そこに一緒に歩む仲間がいたということも、素晴らしい事実です。



 そのような高等部生活の中で、様々な「態度」が形成されたように思います。思考の方向付けや洗練化は社会学部での大学生活4年間が大きな影響をもたらしましたが、良くも悪くも「態度」の基盤は高等部時代に元があります。



 「態度」を形成する上で、高等部は本当にいい学校でした。今日、同窓会のキックオフパーティーの席上、「高等部は人格のある学校だ」という言葉がありました。



 高等部の玄関には「凡ての人の僕たれ」との揮毫が飾ってあり、私の手帳には卒業式にその揮毫の前で撮った写真が挟まり続けています。私はキリスト教信者ではありませんが、建学の精神、そして聖書の教えから醸成される「学校の人格」が私自身の「態度形成」に及ぼした影響は小さなものではありません。



 先月、キリスト教学校教育同盟の研修会で講演した後、同志社の方から「社会との向き合い方が関学生らしい」と言われました(…もちろん見た目ではありません)。



 自分を育ててくれた母校にどうお返しをするのか。それを意識していないといけませんね。同窓会は同窓の親睦を深めるものではありますが、同時に、母校へのお返しのための場でもあると思います。



 もちろん、一番の「お返し」は、社会をよくするために活動し、そして活躍することだということは間違いありません。それは当然として、それに加えての「お返し」(特に新基軸)について、大先輩が大勢おられる中、まだまだ本当に「ひよこ」ですが、考えることは怠らないようにしたいものです。



 改めて母校・恩師・友人、そして神さまへの感謝を覚えた一日でありました。