つながりを認識する態度

 夜に急遽、一郎くんが入洛。五山の送り火を少しだけ見てから、ご飯を一緒に食べながら、近況を報告しあいました。その後、ひっさびさにBarにいき、夜遅くまで語らいました。



 そこで出た話題の一つが「つながり」という言葉について。環境教育で用いられる「つながり」という言葉について、その濫用への違和感を示した一郎くんに対して、僕は次のようにコメントしました。酔っ払いながらでしたが、考えを整理できたので、ここにも掲載しておきましょう。



 環境教育やホリスティック教育では「つながり」という言葉がよく用いられますが、それは「つながり」をつくるというよりも、「つながり」に気づくという文脈においてだと思います。



 「わたし」という人間は、様々な「つながり」の中で生きています(生かされています)が、そのことを認識/自覚することを、私たちは忘れがちです。



 環境教育やホリスティック教育の場面を通じて、「つながり」をがんばってつくろう!というのではなく、その場にある「つながり」を認識する感性や態度を磨いていこう!というのが、第一の目的ではないかと私は思います。



 「つながり」という言葉が濫用される中で、違和感をもたれるとすれば、それは「つくる」ということに傾注したイメージだからではないでしょうか。非日常で「つくる」ことが、日常にどう活かされるのか見えにくい、それは指摘としてはあたっている部分だと思います。



 確かに「つながり」を発展させたり、創造することも大事です。しかし、まずは「つながり」を認識すること、それが大事でしょう。なぜならば、どういう「つながり」をつくるべきか、それが曖昧では望ましくないからです。




 飲みながら何て話をしてるんや?と思うかもしれませんが、これはこれでおもしろいものです。