市民に「なる」学び

 最近、市民(性)教育(citizenship education)についての議論が盛んだ。学部時代に、メディア・リテラシー概念の検討から市民的リテラシー概念の構築の重要性に気づき、その後、大学院時代にシチズンシップ共育企画という団体を立ち上げたりするなどして、市民教育の必要性を認識してきた一人としては、嬉しい気持ちがある反面、その広がり方に少々複雑な気持ちを持つ時もある。



 というのも、幾つかの議論では、市民教育を市民に「する」学びや教えと考えている節が見られるからである。デモクラシーの担い手は、「なれ!」と言って、教え込んで、強制的につくり上げることが可能なものかと言えば、そうではなかろう。それは、これまでの政治教育が「主権者になりましょう!」と言っても響かなかったことの繰り返しになりかねない。時に、「なれ!」と言われれれば言われるほどに、「なってやるものか」と逆効果を招くことすら考えられる。



 イギリスで市民教育を正課のカリキュラムにするよう審議会答申をまとめた、バーナード・クリックは、従来の政治教育を以下のように皮肉っているが、市民教育がこの二の舞になることは何としても避けるべきことであることは言うまでもあるまい。



 昔ながらの決まりきった「憲法」教育を議論も問題提起もなく、そのため死ぬほど退屈なやり方で教えること(これがしばしば公民科と呼ばれているものの中身である)はいずれにしても無益であり、最悪の場合にはデモクラシー精神の奨励にマイナスの効果しかもたらさないことが今では一般的に認識されている。 (クリック,バーナード『デモクラシー』添谷育志・金田耕一訳、岩波書店、2004年、pp.200-201)



 市民教育は、市民に「なる」ためのエンパワーメントの機会/環境を整備する学びである。このエンパワーメントという言葉を吟味することで、市民教育のあるべき姿は浮かび上がってくると考える。シチズンシップ共育企画もミッションにエンパワーメントという言葉を入れているのだが、案外、この言葉は誤解されているように思うことが多い。



 少し長くなるが、エンパワーメントという言葉を非常に明瞭に説明している、森田ゆり氏の論文より引用する。



 エンパワメントとは人は皆生まれながらに様々の素晴らしい力(パワー)を持っているという信念から出発する考え方である。(中略) エンパワメントとはこのような外的抑圧をなくすこと、内的抑圧をへらしていくことで、本来持っている力を取り戻すことである。(中略)



 エンパワメントとは、もっとがんばって、もっと努力して、もっとセミナーに参加して、もっと勉強して、もっと外からちからをつけることではない。ちからはすでにわたしたちの内にあるのだ。傷つけられ、抑圧され、外へ出すことを阻止されてきたちからに気がつくこと、それを活性化させることである。そのような自分へのまたは他者への働きかけのことである。
森田ゆり「子どものエンパワメント」、部落解放・人権研究所編『子どものエンパワメントと教育解放出版社、2000年、p.23, pp.28-29)



 エンパワーメントという言葉に「力の付与」という訳が与えられることが多いが、そうした力のある大人が、力のない子どもに与える、ということを想起させる概念ではないことは、上記で明らかである。森田氏は前掲書で「力を回復すること」と一語にまとめているが、分かりやすい表現であろう。



 繰り返すが、市民教育とは、市民力のないものに市民力をつけさせるような、市民に「する」学びではない。市民教育は、潜在的なものも含め自らに内在する市民力に気づき、それを発揮していけるようになるための機会/環境を整備する学びである。



 「どうせ社会は私/僕がどうしたって変わらないんちゃうの」、「どうせ私/僕なんか…」という自らの内的抑圧に気づき、それを乗り越えることをどう支援できるか、また、そうした内的抑圧を生成させているシステムなどの外的抑圧をどのようにしてなくすことができるか。市民教育の場面では、特に前者を中心に据えた観点での教育プログラムデザインが望まれよう。(もちろん、後者を組み込むことも重要ではある)



 抑圧という壁の前に立ちはだかったとき、足がすくむのは当然だ。しかし、壁というのは、そう高いものでなければ、ひょいと登ってみると、実は簡単に越えられるものだったりする。一度、越えると、「なんだ大したことない」と思える。すると、次に似た壁にぶつかった時も越えられるし、壁をつくっている外的抑圧にも向き合えるようになる。だからこそ、市民教育において、体験学習が重要なのである。



 「なんや、やったらできるやん」、そう子どもに思ってもらえるような体験をプロデュースすることこそ、市民教育の担い手には求められる。



 ここで気をつけるべきは、単純に機会や環境を整えれば良いかといえば、そう言いきれないということである。外的抑圧/内的抑圧ともに、個々人で違いがあるからであり、その違いを無視した議論は、慎重に向き合うべき「差異」を見落としてしまいかねない。より学問的に言えば、アマルティア・センが、結果の平等/機会の平等の二者択一の議論に、ケイパビリティ(潜在能力)という概念でもって問題提起したことを参照すれば、この話はより洗練されるだろう。(センの議論については割愛するが、ケイパビリティ・アプローチを分かりやすく紹介したものとしては、この本が良い)



 なお、当然ではあるが、ファシリテーターとしての教員がプロデュースした体験から、全く別の気づきや学びを子どもが見出すかもしれないが、それは肯定するべきである。そうでなくては、「押し付け」というエンパワーメントに程遠いことが起きてしまう。市民教育の担い手は、価値を伝達するのではなく(価値伝達)、価値観を形成する体験を提供し、価値形成/創造を促すことにこだわれる人であるべきだろう。



 十分に語りきれていないものの、非常に長くなっているので、今回は一度筆をおくことにするが、市民に「なる」学びと、市民に「する」学びの間には、こうした考え方の違いがある。



 さて、現在、盛んな市民教育の議論で、こうした根幹部分の認識についての議論はどこまで充実しているだろうか。今後の日本での展開について、よくよく注視したい。