人々は万博に何を求めているのか?

aichi.jpg 愛知万博に行ってきました。個人的には万博開催には、否定的な立場ではありますが、自然学校地球市民村で市民活動業界の先輩や知人が活動しているということもあり、また18日に愛知県教育委員会の研修(詳しくはこちら参照)で名古屋にきたついでに、ということで、友人と一緒に足を伸ばしてみました。



 30度を超えるという真夏日にも関わらず、ものすごい人手でした(19日の来場者は約15万人)。ゴンドラにのるために40分、ジュース買うのに5分、お土産屋さんに入るためにも行列で待つという有り様です。人気パビリオンにもなれば、待ち時間も180分とか220分に…(聞くところによると6時間待ちという記録もあるそうです)。



 そんなに並んで見るものほどのものでもないだろう、と、行列や人ごみが好きではない僕なんかは、一気に楽しむ意欲が萎えるのですが、多くの人はそうではないようで、不思議でした。一体、何を求めているのでしょう。



 開催までに、あれだけ「問題」となり、ゴタゴタがあった万博。しかも、大会コンセプトが徹底されておらず、トーン&マナーの整わない、中途半端な万博…にも関わらず、実際に開催すれば、これだけ人が来ているという現実を見つめなければならないでしょう。メディア・リテラシーのない結果だ、民度が低い結果だ、とばっさり斬っても良いのですが、それだけではないようにも思われます。



 ボードリヤールはディズニーランドについて、『シミュラークルとシミュレーション』で、「ディズニーランドは、それ以外の場こそすべて実在だと思わせるために空想として設置された。にもかかわらずロサンゼルス全体と、それをとり囲むアメリカは、もはや実在ではなく、ハイパーリアルなシミュレーションの段階にある」(→乱暴に説明すれば、空想が現実よりも「リアル」なものだと受け止められているということ)と論じています。



 こうした分析視角を援用すれば、愛知万博もまた、現実だと僕らが思っているものの非現実性が発露することを隠蔽するための、巨大な非現実空間なのかもしれません。



 ラディカルな環境NPOにとっては、(予想以下とはいえ)それなりに盛況な万博というのは、「見たくない現実」かもしれません。しかし、そうした「見たくない現実」を見つめた上で、どういう「現実」が隠蔽されているのかを明らかとするようなオルタナティブ(な空間)を提示していくことが、環境NPOにはこれから求められくるのではないでしょうか。