性の多様性とこれからの社会

 今日は、乳房文化研究会の公開研究会「性の多様性のこれからの日本社会」に参加してきました。性的マイノリティと言われる、GID(性同一障害者:障害という表現は不適切だと考えています)や同性愛者の人々を取り巻く社会システムの問題性について、医療や法律などを例に考えていく、というものでした。(なお、GIDと同性愛は全く違うものですよ、念のため、書いておきますが)



 講演で医療や法律の問題が大事であることはよく分かりましたが、個人的には当事者の人々による(当事者の経験に基づく)様々な問題提示の方が心に残りました。当事者の言葉には力が宿る、とは、昨年、日本デザイナー学院で講師をしていた際にも痛感しましたが、今日も実感。



 なお、『ゲイ・スタディーズ』で、同書の著者は、ゲイ・スタディーズが当事者たるゲイによって担われる重要性を巻頭に示していますが、そこでは「語られ」「記述される」客体でなくなるという意義が記されています。確かに、どういう位置で発話しているのか、ということが非常に大きな意味を持つ領域ではありますよね。



 で、今日の話を聞いてですが、いかに私(たち)が、性別というものを自明のものと見做し過ぎているかということや(人間は男と女という簡単な区分けが簡単な生き物ではない)、どういう人々の視点で現在の社会システムや社会規範がつくられているのかということを「問う」重要性を再確認しつつ、性の多様性がフェアなかたちで確保される社会づくりの難しさも認識しました。



 例えば、ラディカル・フェミニズムの理論的見地から、同性愛の「結婚」を巡って、よく交わされる議論ですが、「(現代の)結婚」という既存の異性愛主義の性規範に基づく制度にのっかることは、既存の性規範を根底から覆すことにならず、寧ろ再生産の可能性を孕んでしまいかねません。このようにして考えると、どのように多様性をフェアなかたちで確保するのかという問いは既存の制度をラディカルに問い直す必要性があり、それ故の難しさを抱えているのです。性的マイノリティの社会的包摂といった場合、「包摂する側/される側」という関係で行われては、全くもって意味がないわけですから。



 では、どうすれば良いのか?と考えると、答えがぱっと出るわけではありません。このあたり、歯切れが悪くなるところです。



 こうした問いと向き合う上で、本日のセミナーでも提示されましたが、バトラーの「撹乱する模倣」という戦略にヒントがあるかもしれません(ジュディス・バトラージェンダー・トラブル−フェミニズムとアイデンティティの撹乱青土社、1999年)。難解なバトラー理論をきちんと説明しようとすると大変な分量になってしまうので、誤解を恐れずに簡単に書けば、以下のようになります。



 バトラーは、私たちが考える性差というものが、行為遂行的に<形態>の模倣を通じてつくりだされていると主張しますが(生物的性差も社会構築物であり、虚構だと喝破しています)、そうした再生産をもたらす模倣の「ずれ」を引き起こす、というのがバトラーの戦略です。模倣の想定がずれる時には(つまり、異性愛者でなされるべきとされる模倣が同性愛者によってなされるなど:具体的には「男性の女装/女性の男装」)、模倣を巡る「撹乱」がおき、その撹乱が既存の模倣によって隠蔽されているポリティクスを顕わにしていく、とバトラーは言うのです。



 既存の社会システム/社会規範の再生産に乗っかっているようで、寧ろ既存のものが隠蔽しているものを暴露し、内破していくという、「撹乱する模倣」は、まだまだ理論的過ぎ、具体性が低いのかもしれませんが、ヒントとしては有効なように思います。

 

 多様性の尊重が守られ、一人一人がその人らしく生きていける社会づくりのためにも、性[差別]を巡る問題については、ぜひ継続して議論していきたいところです。

 なお、本日のシンポジウムの休憩時間中、「自認されている性別」に基づいてトイレを利用してくださいと主催者が案内されました。こうした配慮、大事だなと思います。



 もちろん、わざわざアナウンスしなくてもよくなることが、これからの日本社会において望まれることは言うまでもないことです。



 ちなみに、私が同性愛者の問題に関心を持つようになったのは、石川大我『ボクの彼氏はどこにいる?』(講談社、2002年)という本を読んでからです。自分が何気なく友人に聞いていた「彼女いるの?」とか「好きな(女性の)芸能人は?」といった言葉が、もしかすると友人を傷つけたり、心苦しくさせていたかもしれない、と同書を読んで、自責の念に駆られたのでした。 



 バトラーの『ジェンダー・トラブル』は専門的過ぎて、よぉ薦められませんが、この本は一般書なので、お薦めできます。